2016年06月アーカイブ

学生などと就職について相談を受けている時に気づいたのだが、将来のキャリアを考える時には2つの発想があるようだ。

1つは「○○になりたい」という発想だ。全体としては、こちらの方が多数派だ。日本の就職は、特定の会社の「社員になること」、いわゆる「就社」が中心だ。だから「商社の社員になりたい」「トヨタに就職したい」と発想するのだろう。

もう1つは「○○をしたい」という発想だ。「人を動かすクリエイティブな仕事をしたい」とか、「人の役に立って感謝を実感したい」とか、そんな言い方をする。こうした発想の方が、キャリアや生き方の本質にかかわるように思うのだが、いわゆる「着地」が難しい。

たとえば「クリエイティブ」と言った時点で、そうとうモヤモヤしている。モヤモヤならいいが、クリエイターという存在自体をカン違いしていることもある。

だからロバート秋山の「クリエイターズ・ファイル」のようなモノが成立するわけだけど。

こういう時、学生にこんな言い方をすることがある。

「まあ、クリエイターでもコピーライターでも、自分で名刺刷って名乗るだけなら、誰にでもできるよ」

「何かをする」ためには、まず「何者か」としての足場を固めたほうがいいんじゃない?そうした問いかけだ。 >> 「何をするのか」あるいは「何になるのか」それが問題なわけで。の続きを読む



車浮代81Yzb8tVY+L 『えんま寄席 江戸落語外伝』 (実業之日本社)

名作の後日譚を勝手に妄想するのはおもしろい。小説やコミックなど、人気作ほど妄想が広がる。さらに、空想歴史というのも一つのカテゴリーだ。

この「えんま寄席」は、その素材を落語に求めている。たしかに、これはちょっとした盲点だったかもしれない。

落語の噺には長短あれども、いわばほとんどが「短編」である。もっとも、数年単位の時間軸が流れるものもあるが、その場合も間は端折って進んでいく。当然のようにうまくまとまっていて、それらが「古典」として多くの噺家に何度となく演じられ、聴く方も飽くことなく笑っている。

ところが、「うまくまとまっている」からこそ、ツッコミを入れたくなる部分があることもたしかだ。登場人物の多くは善人であり、道に外れていてもどこか憎めない。もちろん圓朝の噺のように凄惨なものもあるけれど、ある種の予定調和がある。

春風亭昇太などは、「愛宕山」を後日譚付きで演じることがあるけれど、それはそれで相当に面白い。

この「えんま寄席」は、名作落語の「その後」を展開させていくのが基本的な構成だ。題材になるのは「芝浜」「子別れ」「火事息子」「明烏」だが、バラバラというわけではない。どこかの話に出てくる「あの人」が、ちらりちらりと現れてきたりする。

バラバラではなく、1つの世界観を構成しているのだ。 >> 【梅雨だから本】江戸落語の後日譚を妄想してみる面白さ「えんま寄席」の続きを読む



51fJ01VZJTL蓑輪諒 『くせものの譜』 (学研プラス)

「歴史小説」と「時代小説」は、ちょっと違う。前者は実在した人物を中心に描いたもので、後者はとある時代を舞台にしたフィクションだ。とはいえ、その境界線も曖昧なところがある。

司馬遼太郎は、間違いなく前者だ。また、池波正太郎の「梅安」などは後者だけれど、「鬼平」などは実在の人物ではある。とはいえ、相当がフィクションだろうから時代小説といっていいだろう。

そう、歴史小説はきちんと時間軸が進行していくのに対して、時代小説は「サザエさん」的な場合もある。いずれにしても、この辺りは作者の匙加減次第なところもあって、隆慶一郎の「影武者徳川家康」のように、登場人物は実在だけどストーリーはまったく異なるというパターンもある。

そして、近年の歴史小説は史実をなぞるだけではなく、いかに人物を描くかという方向になっていると思う。

これは、やはり司馬遼太郎の呪縛と、そこからの脱却が大きいだろう。戦国時代などの「基本的知識」は司馬小説によって知った人も多いと思う。ただし、その限界もあると感じている。登場人物は大きな歴史のベクトルの中で行動するが、どこか構造の中に捉われているようなイメージだ。

司馬小説は「歴史を動かす見えない力」であって、一人ひとりのインサイトがどこか薄い。ただし、だからこそ昭和のサラリーマンには受けたのだろう。目の前で起きている権力闘争などを理解するのには、ちょうどよかったのだ。 >> 【梅雨だから本】司馬の呪縛が解けた世代の快作「くせものの譜」の続きを読む



81tLzFyrc7Lトム・ヒレンブランド(著) 赤坂桃子(訳) 『ドローンランド』 河出書房新社

というわけで、雨の多い季節が来たので、最近読んだ本の話など。まず最初は、ドイツの近未来SFミステリーだ。

未来を舞台にした創作物には、作者の「割り切り」が大切だと思う。

そもそも、未来のことなんか誰にもわからない。だから、「こうなるんだ」と断定した方が簡単だ。2001年になって、「別に宇宙に旅してないだろう」と後でツッコミを入れるのは誰にでもできる。発表時点で、「こうなんだ」と言い切ったものが勝ちなのだ。

ただし「近未来」となると、ちょっと様子が違ってくる。「なるほど、こうなるかもしれない」というリアリティを維持しつつ、読者の期待を上手に裏切ることが求められる。

このドローンランドは、その近未来を舞台にしたSFであり、ミステリーだ。作者はドイツの各賞を獲得したようだが、ああそうだろうな、と思う。

卓越した世界観と、緻密なストーリー、そしていきいきとした人物たち。ミステリーとしての精緻さを求めると、いろいろ言いたくなる人もいるだろうが、近未来世界をここまでキッチリと描き込んでいる小説はそうそうないだろう。

近年話題になるミステリー系の小説には、北欧の作品が多い。ドイツの作者だとセバスチャン・フィツェックの「ラジオキラー」とか好きだったが、警察組織の内側を描くときのコッテリ感は、このドローンランドも通じるところがある。 >> 【梅雨だから本】絶妙の近未来ミステリー「ドローンランド」の続きを読む



インターネットに関わる人は、新しいテーマを捕まえていくことには熱心だが、後ろを振り返ったり歴史を論じることはあまりないように感じる。そもそも、歴史自体が浅いということもあるが、「昔話」自体がどこかタブーとされる空気感もあるのだろうか。

一般化されてもう20年を過ぎたし、その流れを1人のユーザーとして見ていると、大きなうねりがあるんだなと思う。

最近気になるのが、ネットで花開いた(かのように見えた)「テキスト」文化がどうなるのか?ということだ。テキスト、つまり文章を綴り、それを味わうということはネットの黎明期にはもっとも当たり前のことだった。

というより、技術的な制約があって、テキストくらいしか楽しみようがなかった。通信速度は遅く、コストは高い。「テレホーダイ」とかいう不便なサービスが通用していたのだ。

そして、みんなが文章を書くようになった。これは、結構画期的なことだったと思う。

というのも、僕が若い頃、というかその前からずっと「最近の人は文を書かない」と言われてきたのだ。「なんでも電話で済ます」というわけで、私的に手紙などをやり取りするのはとうの昔に「趣味人」の領域になっていた。

まずはメールが広まった。最初は社内連絡が中心だったが、やがて携帯メールも普及する。掲示板は賑わって、さまざまなコピペも生まれる。いわゆる「テキスト系サイト」も増えた。 >> ネットの「テキスト文化」は衰退してしまうのか?の続きを読む