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外で食事をする時、インターネットの情報はあまり見ない。
たしかに平均ポイントは大体の目安をあらわしていると思うが、書いてある文章を見ると「さもしい」感じが漂うからで、もっともこれは実名のサイトだとあまり感じない。
じゃあ、なんで外食評論サイトの文章にこの「さもしさ」が漂うのか。それは、「おいしいものを食べたい」という気持ちより、「損したくない」という気持ちが露骨だからだと思う。
こうした文章、特に不満を述べる人々には共通したところがある。
「前評判に比べて、それほどとは思わなかった」
「~のガイドで★★というのは、過剰評価ではないか」
つまり、こういう人は事前に仕入れた情報との「答え合わせ」をすることに躍起になっている。きっと一皿ごとに答え合わせをしているのだろう。それで本人は満足なのかもしれないが、そのプロセスを読むのは痛々しい。
より満足する消費行動への「手段」としての情報は、増えるばかりである。ところが、この情報は、消費に対する「期待値」を決定する。そして消費の満足は、絶対値で決まるのではなく「期待値との差」で決まるようになってしまった。
これは、外食関連だけではない。ホテルなど宿泊施設の評価や、電器製品の評価まで同じ構造になっている。
「過剰な情報探索は、人を幸福にしないのではないか?」
これは、もう気づいている人が増えているのかもしれない。
たしかに、還暦をすぎた知人でネットも携帯も持っていない夫婦がいるけれど、彼らの生活は十二分に豊かに思えるし、何より情報不足で損をしているようには思えない。
「情報を使いこなすことが良い生活を実現する」という「情報」を発信する人は、「情報」で生計を立てている人である。だから、「情報弱者」は救済されなければならないと言うが、本当にそうなんだろうか。
「情報強者」のはずの人が、レストランで小首をかしげながら食べている。写真を撮っては、「答え合わせ」をネットに書き込む。彼らを救済してあげた方がいいのではないかと、老婆心ながらおもってしまう。