カテゴリ[ メディアとか ]

「食べログ」がきな臭いようで、こんな情報が飛んでいる。

もともと、怪しげなことをやるようなビジネスは、どこかうまく行ってないことが多いんだけど、感覚的に言って、あのサイトの影響力は段々と低下していると思う。

インスタグラムなどの影響もあるだろうし、近くで探すならグーグルマップから検索しても、大体の見当はつく。ちなみに自分の周りの友人は、あのレビューを信じていない人ばかりで、まあスターバックスをうまいと思ったことがないようなタイプである。

でも、一番の原因はあのレビューの文章に漂う、独特の香りにあるのではないかと思ってる。

そもそも、食を文章にするのは難しい。そもそもが、「おいしさ」は相対性が強い。エリアによっても違うし、同じ人でも時によって異なる。打ち上げのビールはうまいが、通夜のビールは苦い。

それに、単なる味覚の鋭敏さであれば、人間以外の動物の方が鋭いのではないか。家の猫に、たまに刺身をやるが養殖はまず食べない。しかも、クンクンと匂いを嗅いでから、不審そうな顔をして去っていく。

ちなみに、この話をSNSに書いたら、猫飼いはみんな「そうそう」と言った。

まあ、味覚なんてそんなものだと思う。

話が逸れた。まあ、そういう味に関することを懸命に書けば、大概は野暮になる。まして点数をつけるというのは、それは「お上りさん」の趣味だろう。ミシュランが旅のガイドに由来すると言うのは、そういうことだ。 >> 哀愁漂う、「食べログ文学」の世界。の続きを読む



今年の初めに、このブログでこんなタイトルのエントリーを書いた。

【今年気になること】仲良し男子と戦う女子。

たとえば嵐とAKBなどを例に出して、メディアの上では「仲がいい男子」と「戦う女子」がもてはやされる、というお話だ。

この傾向、このオリンピックでもその文脈は健在だった。というより強化されてる。

「仲良し男子」については、先日も書いたとおり。で、気になるのは「戦う」どころか、もはや「昭和のスポ根」を地でいく女子の頑張りだ。

レスリングの吉田を中心とした人間模様、ウェイトリフティングの三宅の父子鷹物語、シンクロの鬼コーチと復活劇。男子よりも、汗と涙の密度が妙に濃い。

そして、こうした事実を受け手が望む方向に合わせて、またメディアも演出する。つまり送り手と受け手の共同作業だと思う。

じゃあ、誰が女子アスリートに、スポ根劇を望んだのか?まあ、中高年男性だろう。

閉会式の夜、近所の小さな店で食事をしていたら、こんな会話があった。常連客の一人客同士とマスターが話している。まず若い女性客に向かって

マスター「あのリレー、いい男ばかりが4人も走って最高でしょ?」

女性客「そうですよね~」

と、ここで隣の中年男性が割り込んだ。 >> スポーツ女子に「昭和スポ根」を求めたのは、誰だったの?の続きを読む



(2016年8月22日)

カテゴリ:メディアとか

いろいろな名場面のあったリオデジャネイロ・オリンピックだけど、日本選手について僕が印象的だったのは、「もうフィクション作家とか大変だよなぁ」ということだった。

それは、特にチームスポーツで感じたんだけど、もう現実の選手同士のエピソードや、醸し出す雰囲気が創作者の想像範囲を超えちゃったという感じだ。

日本では、スポーツにおけるスーパースターは、フィクションことにコミックから生まれて来た。というか、まだまだ世界レベルから遠い日本のスポーツは、コミックの中で成長してきたわけだ。

そして「大リーグボール」の時代から、日本人選手が本物の大リーガーになって、超一流の仲間入りをしていった辺りから、フィクションの出番は段々と減ってきたと思う。

今大会だと、まず荻野と瀬戸の「子どもの頃からのライバルと友情」というお話があった。

体操は、内村を中心としたチームが優勝して、最後はそのリーダーが個人でも金メダルと獲った。

卓球は男女ともメダルを獲ったが、並んだ時の個性がまるで図ったみたいだし、そして、4×100mリレーは、「できすぎ」というくらいのお話だった。

1人も9秒台もファイナリストもいない中での、チームプレーというのもそうだけど、またキャラクターが光ってる。でも、ドラマの脚本家が「ケンブリッジ飛鳥」なんてキャラクターを考えたら、脚本家が突っ込まれたと思うんだよね。

「いや、ちょっと荒唐無稽でしょ」とか。
でも、現実はもう軽々と先に行ってしまった。 >> 「本物のチーム」が勝った夏。の続きを読む



知り合いに、あちらこちらと食べ歩き、たいそう詳しい人がいる。それを半ば生業にしているので大したものだと思うのだけど、ちょっと言葉が危ういとことがある。

「あんな店、うまいという奴の気がしれない」

この手の言い回しがやたらと多い。会って間もない人、つまりお互いの好みもわからない人がいる前でもそんなことをいう。

食の好みは、人それぞれだ。とは言え、食べるだけでは満足できずに、評してランク付けまでする人もいる。

そして「ああ、あの店はちょっと苦手だな」といえばいいものを、なぜか客をまで貶めたがる。なんで、そうなるのかはわからない。ただ本人が気づかないうちに、相当友達を減らしているんじゃないだろうか。

何かへの好き嫌いは誰にでもある。ただし、そういう時に「それを好きな人」を攻撃する心理とは何なのだろう?

ポケモンGOのブームで一番面白かったのは、そういう批判をする人を観察できたことだ。 >> ピカチュウは、「文化人もどき」を教えてくれる。の続きを読む



インターネットに関わる人は、新しいテーマを捕まえていくことには熱心だが、後ろを振り返ったり歴史を論じることはあまりないように感じる。そもそも、歴史自体が浅いということもあるが、「昔話」自体がどこかタブーとされる空気感もあるのだろうか。

一般化されてもう20年を過ぎたし、その流れを1人のユーザーとして見ていると、大きなうねりがあるんだなと思う。

最近気になるのが、ネットで花開いた(かのように見えた)「テキスト」文化がどうなるのか?ということだ。テキスト、つまり文章を綴り、それを味わうということはネットの黎明期にはもっとも当たり前のことだった。

というより、技術的な制約があって、テキストくらいしか楽しみようがなかった。通信速度は遅く、コストは高い。「テレホーダイ」とかいう不便なサービスが通用していたのだ。

そして、みんなが文章を書くようになった。これは、結構画期的なことだったと思う。

というのも、僕が若い頃、というかその前からずっと「最近の人は文を書かない」と言われてきたのだ。「なんでも電話で済ます」というわけで、私的に手紙などをやり取りするのはとうの昔に「趣味人」の領域になっていた。

まずはメールが広まった。最初は社内連絡が中心だったが、やがて携帯メールも普及する。掲示板は賑わって、さまざまなコピペも生まれる。いわゆる「テキスト系サイト」も増えた。 >> ネットの「テキスト文化」は衰退してしまうのか?の続きを読む