カテゴリ[ 広告など ]
(2019年6月24日)

カテゴリ:広告など

10年以上大学でマーケティングやメディアの科目を担当しているので、毎回メディア接触についての簡単なアンケートをしている。それほど厳密ではないけど、100人以上対象なので、だいたいの世の中の流れを反映している、というか半歩以上先を行ってる感じかな。

ここ3年くらいだと、時々は「ラジオ」を聴く、という人が少し増えてきて、とはいえ全体の5%くらいだけど、ひと頃は当たり前にゼロだったんで、やや目立つのである。

が、「ラジオ」は聴くけれど、「ラジオ」というものを見たことがない人が多い。

つまり、スマートフォンで「勝手に放送を流してくれるアプリ」がラジオなのだ。

そうなると、文系学生に周波数の概念を教えるのが難しい。ラジオをチューニングしたことがないのに、テレビが超短波とか言っても通じない。一頃は携帯の帯域でGHzとかMHzとか言ってたこともあったが、いま「ギガ」といえば通信容量のギガバイトだし、そもそも「昔のAMは10KHz単位だったのを移行したんだよな」とか、同世代の友人にも通じなかった。調べたら1978年だったけど。

まあ、それはいいんだけど、考えてみればいま自宅で見てるテレビも「どこから放送が来てるか」よくわかってないことに気づいた。集合住宅だから壁のアンテナ端子に差し込めば、地上波もBSもCSも見られるけど、たしか地上波はケーブル経由だったのか?BSやCSは共同受信のアンテナだと思うけど、どこにあるのか見たこともない。

つまり、いま見てるコンテンツが放送か通信かはもうどうでもよくなっていて、年代を問わず、自分にとって何となく面白いものに接していて、その多くは動画だったりする。

そういえば「マスかネットか」のように対立的に語られることもなくなった。あと、「インタラクティブ」という言葉も聞かなくなってきて、ある時期は広告会社の組織名でも結構みかけたけど。

ネットメディアが誕生したころは、マスメディアに対しての対抗心も強く、だから「マスにはできない」ことにフォーカスして「インタラクティブ」のような概念も大切だった。ただし、勃興期の通信環境では、できることがあまりに少なかった。

その後4Gの時代になり、気がついたら「すべてがマスになる」ような状態だ。Youtubeでも、Netflixでも地上波テレビでも「見たら見っぱなし」で、次の面白いものを探す。そして、SNSでは「皆が見たものを見なくちゃ」となる。2時間の映画も5秒のネコ動画も、「等価」と言っては言い過ぎかもしれないけど、見ている方のアタマの中では序列は薄くなってるだろう。

週末の雨の日は2時間の映画を見て、通勤時の隙間時間にはネコ動画。どっちもヒマつぶしの選択肢で、あとはヒマ度合いでコンテンツが決まる。

見る方はそれでいいとして、広告はどうなるんだろう。この流れに個人情報へのアクセスを制限する傾向が加わると、結局はマス広告の時代のように量的パワーで決まっていくのか。『新記号論』が鋭く指摘した「模倣と感染」がさらに真実味を増していくようにも思う。

ちょっと話はそれるけど、今秋オープンする渋谷スクランブルスクエアで「デジタルサイネージ実証実験」がおこなわれている。
これをどう見るか、「ビッグブラザー」とか思うのか、それだと歳がバレる気もするけど、全体としてどこか「パワー広告の時代」に回帰していくような感覚もある。

いずれにせよ広告を「媒体別」で捉えるのは、業界の事情に過ぎない。そして、本当に「生活者視点」でメディアプランを考えたら、どうなるのか。

後代の歴史の本には、「あらゆるプレイヤーが入り乱れて戦った“メディア統一大戦”がありました」、と書かれるんじゃないだろうか。

 



電通の「日本の広告費」が発表されたが、驚いた。いや、ネットが地上波テレビと来年にも逆転しそうだとか、そういうことではない。発表されている文章が、昨年までとはどこか違っていて、味わい深い。

まず、新たな項目として「マスコミ四媒体由来のデジタル広告費」という項目が、「インターネット広告費」の中に“新設”された。

なんか健康食品の「植物由来成分」みたいだけど、これは「マスコミ四媒体事業社などが主体となって提供するインターネットメディア・サービスにおける広告費のこと」らしい。つまり「インターネット広告ばかり増えているようだけど、マスコミ四媒体もこれだけありますよ」ということだ。

で、「こんなにあるのか」と思うか、「これしかないのか」と思うかは、人それぞれだろう。でも、とにかくこういう項目ができた。

そして、本文がなかなかユニークである。新聞から、雑誌、ラジオ、テレビと淡々と続くが、インターネット広告になるとちょっと口調が変わる。 >> 電通「日本の広告費」の文章が、妙にはじけているのだけど。の続きを読む



ネットのニュースで、ハズキルーペのCMの話が書かれていて、近々新タレントを起用するという。それも武井咲が高級クラブのママに扮するというのだから、オンエア前から突っ込みたくもなるけど、だとすればもう十分に狙いは当たっているんだろう。

で、渡辺謙と菊川怜のあのCMも見られなくなるかもしれない。じゃあ、その前にあのCMのすごさについて書いておこうと思う。

ハズキルーペのCMは前からいろいろあったようだけど、渡辺謙と菊川怜のインパクトは相当強い。そして、検索すれば「嫌い」という声が溢れている。

しかし、相応の効果があったという話は人伝に耳に入ってくるし、売上へはしっかり貢献しているんだろう。そうじゃなきゃ、次のCMは投入しないだろうし。

個人的には、あのCMは「すごい」と思う。毎日録画しているニュースの提供なので、初めて見た時は思わず巻き戻してチェックした。

渡辺謙の怒鳴り声とか、菊川怜の媚びたような視線も、あれを「好き」という感じにはなれないけれど、広告の仕事をしている人なら「あ、やられた」と思ったんじゃないか。

だって、結局「これかければ大きく見える」という認知はしっかりとれるわけで、ただのうるさい連呼CMとは違う。一方で、渡辺謙が読むシーンの本は「マクベス」の英語台本だったりして、裏地までちゃんと気を使っている。

で、「この感覚ってなんなんだろ?」と気になっていたんだけど、ふと分かった。

これは、いわゆる「生コマ」の世界に近いんじゃないか?朝のワイドショーなどの合間に、トイレタリーメーカなどがスタジオで実演している「生コマーシャル」の方法論なのだ。

ハズキルーペのCMも60秒で、15秒中心のTVCMの中で異彩を放っている。時間をしっかり活かして、2人のタレントに生コマ的をさせている感じだけど、その特徴はなにかというと

  • プレゼンテーションよりデモンストレーション

いわゆる「実演販売」もそうだけど、「これでもか!」と見せつけることが大切で、「なぜか?」というような話はそれほど必要ない。

  •  振る舞いがわざとらしい

この「わざとらしい」と言うのは、誉め言葉だ。達者な板前が実演販売をしても人は集まらないだろう。生コマでも「これは広告だ」とわかってもらうためには、わざとらしさは必須となる

  •  知的であろうとしない

生コマというのは、「わかりやすさ」が身上だ。逆に言うと「自分は知的である」と思っている人から嫌われるくらいがちょうどいいのだ。

こう考えると、ハズキルーペは広告として堂々としている。そして、この「生コマ的感覚」はweb上でもジワジワと広がっている。長尺が可能なネットメディアとも相性がいいのだろう。

そうなると、近年目につくような、「広告であることを隠したい」という流れにも疑問が出てくる。「広告は嫌われる/信用されない」という前提でいろんな技法が生み出されて、その結果怪しげな情報も増えて、いろいろな基準作りなども進んだ。

PRなどを含めて、ストレートな広告ではない方が効果を生むこともあるだろう。

でも、「これは広告である」という、送り手と受け手のフレームの共有のもとに、グイグイとベネフィットを押していっても、成果が出ることだってあるわけで、だとすればこうした「生コマ的方法」は、メディアを超えて見直されて行ってもいいんじゃないかと思っている。

 



先日、自宅のポストに「タウンページ」が入っていた。毎年、頼まなくても配られる。使わないので、すぐに古紙回収に出すのだけれど、ちょっと気になったので開いてみた。

必要があれば、とりあえずネットで検索するのが日常なのだが、あらためて業種別に見ると味わい深い。

住んでいる区が対象なので、1カテゴリーに1件というのも結構ある。たとえば、「しいたけ」は、1件。「金網」も、「黒板」も、そして「刀剣研磨業」も1件ずつある。その一方で、「こうじ(麹)」は2件もあるではないか。

そして、「彫刻家」が1件掲載されている。電話して「彫ってください」と頼む人がいるか。いろいろと、妄想は尽きない。「軍払い下げ品」も1件掲載されているが、これは思わず調べてしまった。

あと、「中華料理」と「中国料理」は分けられていて、後者の方が本格のようだけど基準はどうなってるんだろ。

などと頁を繰って、最後に「ロープ」と「和装小物」が1件ずつあるのを確認して、「やっぱり回収に出すか」というところで、毎年の疑問を思い起こす。

「これ、いらないんだけど、断れないのか?」 >> 古紙回収直行のタウンページだけど、広告市場は300億もあるんだ。の続きを読む



ゴディバがもの申した。「日本は、義理チョコをやめよう。」と。2月に入ったばかりの、日経朝刊だ。これが成功かどうかはわからないが、ネットニュースで「賛否」と見出しになれば、十分な効果だろう。

ゴディバは、いうまでもなく有名な高級ブランドだけれど、「鮮度」という意味ではどうだったのか?店舗はどんどん増えて、モールにもアウトレットはもちろん、昨年は高速道路のサービスエリアにも増えた。

もちろん、稀少性はない。そのあたり、リサーチャーが調査してデータを見れば、いくらでも課題を指摘できるはずである。

久しぶりに話題になった、ベテラン選手。しかし、ブランドはアスリートと違って引退できない。メンテナンスと言うのは、ある意味過酷な塹壕戦でもある。

この広告、僕が気になったのは「日本」という言葉だ。実は、この一言を入れたがために「賛否」を含めて話題になったんだと思っている。

「義理チョコをやめよう」でも、メッセージは成立する。コピーライターは、どんどん短くしていくので、「日本は」を外した案も検討したかもしれない。その方が、素直に入ってくる可能性もある。

でも、あえて「日本」を残した。しかもこのメッセージは、ゴディバジャパンの支社長であるシュシャンという方の私信というかたちになっている。あ、パンダとは関係ない。

でもそれが、癖付けになる。「ここが変だよ」的な匂いがちょっとする。だから、反発もあるかもしれないし、「余計なお世話感」も出るのだろう。 >> ゴディバの「義理チョコをやめよう」に、”日本”は必要だったのか?の続きを読む