2010年05月アーカイブ

就職戦線は厳しいと言うものの、学生によっては結構重複内定が多い。 知らない学生が、そんなことで相談のメールをよこして来ることもある。とある学生はXYZの三社から内定をとった。XとYは総合広告の上位で、Zは業態はやや異なるもののこちらも情報産業の雄である。 で、どこがいいだろうか?ということで大体学生の腹積もりは決まっているようだけど、会うことにした。 そこで聞いて驚いたんだけど、なんと内定後に採用担当者からこう言われたらしい。 「今年の広告業界志望の学生のレベルは低い」 わざわざ、どうしてそういうことを言うのか。Y社とZ社の担当はそう言ったと聞いて、思わず「その2社はやめたほうがいいだろ」と言いそうになったが、それが理由かはともかく、本人はX社に行くつもりのようだった。 しかし、これって、何なんだろうか。まず、採用担当として、というか社会人としてかなり傲慢なんじゃないか。これじゃ内定者だって、首を傾げるだろう。 それに、人気が低下したというなら、それは企業側の責任。ここで、内定者に八つ当たりしてどうするのか。 それより問題だと思うのは「学生のレベルが低い」と嘆く、人事担当者の気概のなさ。これには、驚く。 学生の質は、たしかに毎年微妙に変わる。しかし「今年のカツオの水揚げ」というような感覚なら、人事なんかやらない方がいい。魚は釣り上げた時点で価値が決まるが、人材は採用後にいくらでも変化する。 まっとうな会社なら、入社時の評価と20年後のそれを必ずしもきちんとトレースしているはずだ。そうすれば、入社時評価があてにならないことも理解しているだろう。 ちなみに、僕が見る限りこうした低下は特に感じない。まさか、と思うような逆転内定はどの業界でもなく、きちんとした企業にはそれなりの人材が集まっている。 そもそも内定者に、こうした話を軽々にするというのは他の業界では聞いたこともない。その上興味深いことに、こうした緩みは会社のパフォーマンスの反映のようで、人事の態度はXYZ三社の業績動向と奇妙な一致を見せるのだった。 ああ、怖い。



(2010年5月26日)

カテゴリ:キャリアのことも
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「配属が決まった」という挨拶が、新入社員から舞い込んでくる。
会社によっては、1週間程度で配属してしまうところもあれば、仮に配属したとしても9月頃までは「試用」ということで基本残業はなし、という企業もある。ただ、どちらかというと新人も会社も「即戦力」志向のようで悠長な職場は減っているようだ。
というわけで、人事にとってはそろそろ「不適応」問題が気にかかる季節なのでもある。
この職場不適応は、当人と環境のそれぞれに原因があるのだけれど、僕が以前から新人に対して言うのは結構シンプル。
「とにかく先手をとる」それだけだ。
仕事が後手に回って、焦ってミスして、落ち込んで。このサイクルに入ればやがて不適応になっていく。アタマの回転がよくて、学生時代までは「ギリギリ追い込み」が得意だったタイプなども意外に陥りやすい。
もちろん社会人でも「追い込み型」はいて、こういう先輩は妙に格好よく見えることもあるけど、ルーキーが真似るのは危険だと思う。新人はとにかく「先回り」をして、先行逃げ切りを図るしかない。それでも、逃げ切れないこともあるんだから。
具体的に言うのは、周囲に対して常に「御用聞き」に徹するということ。

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外で食事をする時、インターネットの情報はあまり見ない。
たしかに平均ポイントは大体の目安をあらわしていると思うが、書いてある文章を見ると「さもしい」感じが漂うからで、もっともこれは実名のサイトだとあまり感じない。
じゃあ、なんで外食評論サイトの文章にこの「さもしさ」が漂うのか。それは、「おいしいものを食べたい」という気持ちより、「損したくない」という気持ちが露骨だからだと思う。
こうした文章、特に不満を述べる人々には共通したところがある。
「前評判に比べて、それほどとは思わなかった」
「~のガイドで★★というのは、過剰評価ではないか」
つまり、こういう人は事前に仕入れた情報との「答え合わせ」をすることに躍起になっている。きっと一皿ごとに答え合わせをしているのだろう。それで本人は満足なのかもしれないが、そのプロセスを読むのは痛々しい。
より満足する消費行動への「手段」としての情報は、増えるばかりである。ところが、この情報は、消費に対する「期待値」を決定する。そして消費の満足は、絶対値で決まるのではなく「期待値との差」で決まるようになってしまった。
これは、外食関連だけではない。ホテルなど宿泊施設の評価や、電器製品の評価まで同じ構造になっている。
「過剰な情報探索は、人を幸福にしないのではないか?」
これは、もう気づいている人が増えているのかもしれない。
たしかに、還暦をすぎた知人でネットも携帯も持っていない夫婦がいるけれど、彼らの生活は十二分に豊かに思えるし、何より情報不足で損をしているようには思えない。
「情報を使いこなすことが良い生活を実現する」という「情報」を発信する人は、「情報」で生計を立てている人である。だから、「情報弱者」は救済されなければならないと言うが、本当にそうなんだろうか。
「情報強者」のはずの人が、レストランで小首をかしげながら食べている。写真を撮っては、「答え合わせ」をネットに書き込む。彼らを救済してあげた方がいいのではないかと、老婆心ながらおもってしまう。



(2010年5月24日)

カテゴリ:広告など
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先週の土曜日は日本広告学会の集まりだった。
集まり、っていうか正式には「クリエイティブフォーラム」というもので、丸一日かけて「クリエイティブ」をテーマにいろいろな人が発表する。学会の大会では会員中心になるのだが、今回は広くクリエイターを招いた。
そこで、僕も研究報告ということで話したのだった。
テーマは広告なんだけど、社会やメディアの話をする中でテレビのことに触れた。
そこであらためて思った、というか話しているうちに気づいたんだけど、本当に今のテレビって「未来」の情報が少ない。
ノンフィクションでいうと、ニュースやスポーツ中継や討論番組は「現在」を伝える。
そして歴史など「過去」を伝える番組もある。ところが「未来」に関する話って、減っている気がする。2000年頃はNHKなんかで色々やっていた気もする。
時間軸だけで考えないで言うと「未知」の話が少なくなっていると思う。たとえばクイズ番組。昔は「世界なんとか~」みたいなクイズ番組があって視聴者に「未知の情報」を提供していた。いま、そうした番組は減ってしまった。クイズとか見ていると視聴者にとって「既知の情報」を出して、それを知らない芸人を笑うという構図である。
広告だって「見たことのない世界」がどんどん減ってきた。かつてのTVCMは「未知の世界」を提示して、そこに消費者を誘うというのが定番だった。今でもそういうのは多いけれど、関係者はその効果の低さにアタマを悩ましているのだろう。
そして、番組も広告もテレビには「現実」だけが溢れかえった。

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政治のニュースは多いし、注目されているようにも思うのだけど、そこで行われていることのクオリティの低さは、かなり凄まじいことになっているような気がする。
一方で、経済ニュースって毎日とても緊張感が高いし、企業の第一線で働く人も経営者もすごいゲームの中に身を投じているんだろうな、と思うし、この緊張感は90年代後半からどんどん高まっている。
それで職場が厳しいというのはたしかにそうなんだろうけれど、この緊張感の背景にはテクノロジーの発達があるわけで。
そう考えると、この15年間くらいの間に、政治というのがテクノロジーの発達から取り残されちゃったんだろうな~と思う。日本の選挙でネットが解禁されてないとか、そういうレベルじゃない。日本に限らず、政治って「生活の足を引っ張るもの」になってる気がする。
ちょっと前の英国総選挙の時、たまたまずっと自宅にいたのでBBCの開票速報をCSで見ていた。いつまで経っても、多数派が決まらないイラだちがキャスターの雰囲気からも感じられたんだけど、驚いたのはこの日の選挙で「投票所に行ったのに時間切れ」で、投票できなかった人が結構いたのだ。締め切り間際でもまだ行列が途切れず、それでもって「はいここまで」というわけで、これが「民主主義の手本」とかいう以前のお話だった。
その選挙結果も、クラシックな単純小選挙区制の矛盾噴出といった風情だ。このグラフは、左が得票数で右が議席数の割合を比較した。
第三極である自民党の得票の大半が死票である。
ここにきて伝統ある小選挙区制度が問題になっている。だが、それは第三極の得票が伸びただけではないと思う。
社会や経済が変わっていく中で政治だけが変わらず、むしろ生活の足を引っ張っているような感覚なのではないか。選挙制度はその象徴に見えている気がする。
17世紀の英国革命はいち早く市民社会の発達を促し、産業革命などをもたらしその後の「英国の時代」を呼び起こしたとされる。
かつては政治的安定が、経済の発展をもたらして社会を安定させるという図式だった。しかし経済がグローバル化していくと、国単位の政治システムはついていけない。そういう事例は山ほどあるんだろうけど、英国の「投票に行ったら締め切りお断り」というのは、どの国でも政治が”お荷物”になっていることの象徴なんだろうか。