2015年07月アーカイブ

1789

宝塚歌劇団 月組公演

スペクタクル・ミュージカル『1789  -バスティーユの恋人たち-』

Produced by NTCA PRODUCTIONS, Dove Attia and Albert Cohen

潤色・演出/小池 修一郎
2015年7月25日 東京宝塚劇場

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宝塚歌劇は18世紀欧州、中でもフランス革命の頃を題材にしたものが多い。「ベルサイユのばら」が代表格だろうか、ここに来てさらに増えている気もする。アンドレア・シェニエやグスタフ3世も同じ頃の話だし、ルパン3世もその頃にタイムスリップしていた。

「ナポレオン」の柚希礼音は「太陽王」ではルイ14世を演じていて、なんか不思議な気もしたが、革命とロマンスというのは芝居や小説の定番だ。

そして、1789。この数字を見れば誰もが思い浮かぶ大イベント。宝塚的には「オスカルとアンドレが天に召された年」であるが、つまりフランス革命が舞台。

フランス発のプロダクションで、日本では宝塚が今回初演して、来年は東宝で上演することも決まっている。

主人公はロナン・マズリエという農家の平民で、官憲に父を殺される。彼がパリに出てきて、ダントン、マラ、デムーラン、ロベスピエールらと出会い、バスチーユの日を迎えるまでの1年が一気に描かれている。

一方で、娘役のトップはマリー・アントワネットで、宮廷側もルイ16世から弟のアルトワ伯にフェルゼンなど多士済々な顔ぶれ。この相容れぬはずの2つの世界が交叉しながら7月14日に向かって疾走していく。構成も引き締まっていて、テンポもいい。

メロディーラインは独特で、スッと予想しなかったよな半音階の進行があって、難しそうだな~と思うところもあったが、こなせていたと思う。

この作品、宝塚向きだなと思うところは多い。主役級以外の出演者にも役作りが求められ、革命や戦いの舞台らしく荘厳で迫力ある群舞とコーラスも見どころだ。メンバーの層の厚さとチームワークが求められる。二幕冒頭の、無伴奏でステップを刻む群舞はパワフルだし、舞台正面を向いてズラリと横に広がる展開の美しさは、「ベルばら」でも見られる宝塚の十八番だ。

一方で、宝塚で再演があるか?というと疑問のところもある。これは宝塚の宿命なのだが、演者が均質的に美しいのだ。そうなると革命家の個性が浮き上がってこない。

小説などを読んでいると、豪放磊落なダントン、シャイで純情なデムーラン、キレるが神経質な感じのロベスピエールと、それぞれの個性がぶつかっていく。この3人が宝塚だと、同質的になってしまうのだ。

「ルパン三世」でも巨漢のミラボーより、ロベスピエールの方が背が高かった。別に関係ない、という見方もできるがこの辺りの容貌や体格が、彼らの心理に与えた影響は相当あるはずだ。そう考えると、この作品は相当幅の広いキャストで行う方が向いている。阪急グループとしては来年の東宝が“本命”なのではなかろうか。

ちなみに「小説フランス革命」の佐藤賢一が解説をしている『フランス革命の肖像』という本がある。肖像画を追いつつ、歴史を読みなおしていくという作りだが、“顔”の雄弁さにあらためて唖然とする。宝塚ファンは、観た後に読んだ方がいいかもしれないけどね。



夏が来た。

これからあちこちで賑わいの季節を迎えるけど、行楽地の駐車場でシルバーのフィットや、グレーのヴィッツを見ることが多い。よく見ると、東京ナンバーのレンタカーだ。都心部若年層はクルマを持たなくなっているんだな、と実感する。

「クルマ離れ」というが、今世紀に入ってからも乗用車の保有台数は微増を続けていて日本全体はクルマ社会化が相当進行した。ただ若者文化の主役でないことは確かだと思う。

一方で、僕が大学生だった80年代はクルマ全盛だった。まあ、いろんな理屈は考えられるんだけど、最近ふと思ったのは「国鉄」の存在だ。

1987年に民営化されて今のJRになった日本国有鉄道は、さまざまな問題を抱えていた。新幹線こそ世界最高水準だったが、乗客は減少傾向。赤字路線も多く、なによりサービスがいいという印象がない。駅の施設も古く、ストライキも多くてイメージも相当悪かった。

つまり、当時の若い人にとって「鉄道で移動する」というのは、あまり積極的にしたいものではなかったと思う。特に男女で遊びに行くときは、クルマを選択しようとしてた。

僕は子どもの頃から鉄道好きだったのだが、大学に入るとやたらに周囲の先輩がクルマに詳しく、何となく「そんなものかな~」と思っていた。

大学4年の頃に新幹線に100系車両が投入されたので、1人で京都まで旅をしたら友人に相当珍しがられた記憶がある。 >> 80年代のクルマ文化は「国鉄」が支えてたのかも。の続きを読む



というわけで、今回の課題はタウン・ウォッチングに取り組んでもらったけど、いまもあったように表参道はいろいろと行列ができてます。

日本中、というか今や世界中から観光客が来ますから、どうしても珍しいものには並んでみる。物販もあるけど、やはり食べ物は多いですね。

パンケーキなどは相当前からあって、店舗も複数あるけど、ポップコーンやクロナッツ、そしてかき氷もあるよね。

で、こういう人気店には一定の法則があります。

それは、出している食べ物が「糖分・脂肪・塩分」の3つが絶妙に仕込まれているということです。どれも、人間にとって必要ですが摂りすぎはよくないとわかってる。でも、ついついひきつけられるわけです。

パンケーキだって、バターとはちみつで十分にこの3つが備わってますが、その上にアイスクリームやフルーツ乗せるでしょ。

ポップコーンは油と塩分に加えて、甘いテイストを加えるのが流行りだから、これも見事に3つ揃ってる。

クロナッツのように、クロワッサンとドーナツの組合せは、ある意味最強です。クロワッサンは普通のパンの中でも、バターを相当使ってるから脂肪分は高いし、塩分もしっかりあります。そこに甘い成分をドンと乗せてくるんだから、かなりパワフルだよ。

この3つの要素がいかに人々をとらえて来たか?ということを分析した本が、昨年日本でも翻訳出版されました。米国のジャーナリストが書いた本で「フードトラップ」という邦題なんだけど、原書はずばり”SALT,SUGAR,FAT”、つまり「塩・砂糖・脂肪」です。

この3要素を米国企業が、加工食品にどう取り入れて来たか、それがいかに消費者を魅了してきたか、ということが明らかにされてます。

こうした要素は意外なところにもあって、セブンイレブンの「金の食パン」は、砂糖、マーガリン、クリーム、はちみつが入ってます。もちろん、塩分も。実際食べたら甘みが強くて驚いたけど、そりゃそうだよね。僕は苦手ですが、ヒットした商品です。

やはりこの3要素が一体化すると強い。牛丼なんかもそうですね。

ただ、こういう甘いものを食べる人が増えているかというと、実際に1人当たりの年間砂糖消費量の統計ではそうではありません(グラフ:農畜産業振興機構の資料より/単位kg)。日本は世界各国で見ると低い方です。中国はさらに低いけど、これは伸びる余地があるかもしれないし、インドは意外と高いのですがアジアは相対的に低い。

一方で先進国は横ばいか減少ですが、米国が上がってフランスは下がってる。表参道の店も米国発が多い。また消費量がダントツに高いのはブラジルですが南米は総じて高く、欧州ではベルギー。

いずれにせよ、現象を見たら今のように構造化して、かつ砂糖消費量統計にあたる。すると表参道の流行りは「糖分・脂肪・塩分」でできているけど、日本人全体としては砂糖の摂取は上昇してないので、「たまには食べたい」からこそ行列してみるという心理が見えてきます。

表参道はいずれにせよ先端の動きがみられるし、そういう意味で青学の立地はマーケティングを学ぶには情報の宝庫だよね。

(2015年前期 青山学院大学の講義より)

 



今年の就活は相当ややこしいことになってて、内定をとって「やっと講義に出られます」という4年生もいれば、これからが本番という連中もいる。一方で、3年生は早くもインターンということで、相談にやってくる。

そうやって話をしていて、いつも思うんだけど、学生や若い社会人って、ハッとするような「気づき」を持っていて、潜在力があるんだなと思う。

たしかに経験は少ないし、スキルは未熟だし、先輩たちに比べれば穴だらけだ。でもその分、発想が自由で矛盾を鋭くついたりする。

そもそも、今の採用活動が矛盾のかたまりだし、今回のルール変更だって誰にとっても変。学生生活を充実させるといって8月に後ろ倒ししたけど、4年の前期はもう崩壊状態で、それを咎めようもない。

そういえば、みんなで売り上げ水増ししちゃった大企業のニュースは、当初の想像以上にすごいことになってるけど、変だと思っていてもそれに慣れるのが、また経験の怖さだったりする。

だから、学生や若い社会人と話して時に感じる「驚き」と、ある意味対照的な驚きもある。それは、十年以上経験を重ねた社会人が、おそろしく陳腐な発想しかできない時だ。

何かを提案しても、「それはうちの会社にはあってないから」的な理由で前に進まない経験はあると思うけど、そういう人もきっと若い時は違ったかもしれないなぁ、と。 >> 会社は鳥を鶏にするのかな?の続きを読む



まあ、安保法案や新国立競技場やギリシャ問題やら、そりゃたしかに「賛否」を問う話は多いんだけど、それにしても最近のネットニュースの見出しは、やたらと「賛否」が多いと思うわけ。

たとえば、こんな感じ。

「父の日イベント中止? 理由に賛否」これは、家庭の事情でお父さんがいないこともあるから。まあ、これは賛否あるだろうな。

「『ドッジボールは暴力』に賛否」まあ、これもわかる。

いずれも、それなりに社会の話だ。

でも、この「賛否」というのもtwitterあたりの声をザクザクと拾って、つぎはぎしてるだけだったりする。そして、賛否はそれだけじゃない。

「女の子の頭をなでるゲームCMに賛否両論」これはゲームの話。

「やりすぎ? とんねるずに賛否」これはテレビの話。

そもそも、テレビやゲームは別に見なくてもプレイしなくてもいいようなもので、賛否を問うもんじゃないだろ、と。そして、ついにこんな見出しが。

「熊切あさ美の『別れていない』にネットでは賛否」

もう、何が賛否なんだか。賛辞の方が文は通じる。まあ、実際は惨事のようだけど。

法案や政策など、それによって自分たちの生活が大きく影響されるなら「賛否」というのも普通だ。学校の行事も、決められちゃえば逃げられないので議論にはなる。

でも、タレントのやったことやコンテンツというのは、別に関係ない人にとっては、相当どうでもいい。じゃあ、なんで「賛否」とかつけたがるのか。

単純に言って、ついつい見出しのクリックが増えるのかもしれない。ただ、それ以上の意味合いが、この「賛否」という言葉にはある。それは「これは皆が気にしているんだよ」という記号として、機能しているのだ。

マスメディア研究で「議題設定(agenda setting)」という機能がある。つまり、世の中の人が「これが重要だ」と思うのは、マスメディアによって影響されるという話だ。

ネットの時代になっても数をとろうとすれば、「これが重要だ」ということをアピールすればいい。

そして、賛否がわかれることに自分の意見を言えることが賢い、と錯覚しちゃう人がいれば、まだこういう見出しは続くのかもしれない。

でも、それの行く末が「熊切あさ美」であれば、あまり賢そうだとは思えない。

それにしても、そうやって話題つくって煽ることやってたらマスメディアと同じだし、ネットメディアならではの価値はどうなるんだ?とかいうことは、多分考えられていないんだろう。

そこで「賛否」が問われた形跡は、見当たらないんだけど。でも、そのうち出るかしら。

「ニュース見出しの『賛否』に賛否」とか。