バッハ・コレギウム・ジャパン演奏会 
鈴木雅明(指揮)アン=ヘレン・モーエン(ソプラノ)マリアンネ・ベアーテ・キーラント(アルト)アラン・クレイトン(テノール)ニール・デイヴィス(バス)バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱&管弦楽)
2019年1月24日 オペラシティコンサートホール
ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調 op.125「合唱付き」

 

鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパンが「第九」を演奏すると聞いて、「これはすぐにチケットがなくなるだろう」と発売早々に慌てて買って心待ちにしていた。

オペラシティのホワイエは、どこか祝い事のようであり、どこかピリピリとした緊張感がある。でも、聴いてよかった。細かいことはいろいろあるだろうけれど、演奏者と聴衆が「もう一度この曲を確かめたい」という気持ちがホールに満ちていた。

こういうのが、コンサートの体験なんだなとつくづく思う。

ちょうど、この直前に一冊の本を読み終わっていた。かげはら史帆『ベートーヴェン捏造』(柏書房)だ。ベートーヴェンの「秘書」であった、アントン・フェリックス・シンドラーという男を追った話である。

クラシック音楽に少々詳しい人なら、ベートーヴェンの交響曲第5番が「運命」と呼ばれるのは俗称であることは知っているだろう。海外のディスクにdestinyとは書かれていない。もし書いてあれば、それはおそらくゲームのはずだ。

ただ、そう言われる由来が「運命はかくのごとく扉を叩く」と本人が言ったから、というのは事実だと思っていたかもしれない。

ところが、そうではないらしい。だって、その根拠となったシンドラーは、どうやら相当な嘘つきで、ベートーヴェンの会話帳を改ざんしていたことが明らかになっているのだ。

最初に指摘されたのは、1977年だからもう40年も経つ。このシンドラーという男の心の屈折については、この本が詳しいのだけれど、彼はベートーヴェンの晩年に彼の元へと近づき、第九の初演に東奔西走したのは事実のようだ。 >> BCJの第九と、『ベートーヴェン捏造』の彼方にある真実。の続きを読む



う~む、6月か。読んだ本が最も少なく9冊だったことに気づく。1ケタというのはこの月だけだった。­原因はあれだ。ヒトごろしだ。いや、別に誰かに殺されそうになったというわけではなく、京極夏彦『ヒとごろし』(新潮社)のせいだ。だって、1088ページだよ。硬い枕が好きなら、それもいいかもしれない。いや、厚さの話になってしまっているけど、これは何かというと「新撰組」の話なのだ。

土方歳三が「合法的に人殺したい」という理由でつくったのが新撰組という設定で、ひたすら土方目線で描かれる。まあ、青春のかけらもない権力抗争劇で、後半は100頁ずつかけて、一人ずつ土方に消されていくような展開。そして、沖田総司は「ドブネズミのような奴」と描写される土方以上のサイコパスで、竜馬はただのゴロツキ。

その直前に読んだ『悪霊』に通じるものもあるんだけど、何というかダメなベンチャー企業の、七転八倒物語にも見える。

新撰組を美しい話として大切にしたい人でなければ、楽しめると思うけど、いや疲れた。

お薦めのノンフィクションは、アニル・アナンサスワーミー『私はすでに死んでいる』(紀伊國屋書店)で、脳がうまく働かないことが人にどのような影響を及ぼすかが、多様な事例と共に語られる。

「自分の脳は死んでいる」と思いこむコタール症候群が、タイトルの由来だけど、そのほかにも離人症や自分を切断したくなる人など、人の意識の不可思議に迫る作品。

上田秀人『本懐』(光文社)は、いろいろな人の「切腹」を描いた話で、着眼点はいいと思うんだけど、読んでいるとお腹がムズムズしてくる。

レイフ・GW・ペーション『許されざる者』(創元推理文庫)は、北欧ミステリーらしい重厚な構造だけど、登場人物は軽めで読みやすい。ただ、何となく北欧の世界観に何となく飽きを感じている気もする。

本郷和人『壬申の乱と関ヶ原の戦い』(祥伝社新書)兵頭裕己『後醍醐天皇』(岩波新書)など、日本史×新書は相性がいいのかどんどん出てくる。前者は歴史をこれから学びたい人にはお薦めできる。

大澤真幸・稲垣久和『キリスト教と近代の迷宮』(春秋社)は、議論自体が迷宮に入っているようで、「宗教をアタマで理解するインテリ」の限界を感じた。

伊丹敬之『なぜ戦略の落とし穴にハマるのか』(日本経済新聞出版社)は、当たり前のようでいながら、日本企業の悪癖がきちんと整理されている。

そして、マンガ好きには興味深く読めるのが、萩尾望都『私の少女マンガ講義』(新潮社)だ。で、その講義内容もともかく質問の的確さに驚くんだけど、だって日本ではなく至りの大学での講義なのだ。なんか、読んでるとそんな感じがしないし、ある意味日本人には気づかない視点もあって、それが萩尾望都への優れた批評のなっているという驚き。

宝塚上演もあり、昨年は『ポーの一族』を再読して、勢いで限定BOXとか買ってしまったけど、やはり天才は天才で、しかも彼女の場合滲み出る人間性にも魅力がある。世の中には、すごい人がいるんだなあ。

 



バイエルン放送交響楽団 日本公演

指揮:ズービン・メータ

2018年11月22日 19:00 東京芸術劇場 大ホール

モーツアルト:交響曲第41番ハ長調「ジュピター」/マーラー: 交響曲第1番ニ長調「巨人」

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コンサートの前に、その曲の録音を聴くことは少ないんだけど、ふと思い立って前夜に「巨人」のフィナーレを聴いてみた。82歳になるメータは、この曲をどのように演じるんだろうかと何か気になったのだ。

で、スピーカーから第二主題が流れてきた時、「あ、ここかな」と思った。若き日のマーラーが書いたこの曲を、いま演じるとしたらここがある種の山場なんじゃないか。

そして、その直感は当たったと思う。あの豊かな響きはいまでも蘇ってくる。

それにしても、緊張感があって、優しく、そして力強い演奏だった。しかし、この夜の演奏会は危うい要素に満ちていたのだ。

まず、公演までひと月を切った10月下旬に、ヤンソンスが健康上の理由でキャンセル。そして、メータが代役として発表される。サントリーホールの2公演は同じプログラムとなったが、この日はマーラーの7番が予定されていたため払い戻し対象にもなっていたのだ。

一瞬迷ったのだけれど、メータの「巨人」を若い頃から得意としてきたし、僕も好きなのでこの夜を楽しみに待っていた。

しかし、会場について指揮台を見ると様子が違う。椅子が置かれているのはともかく、コンサートマスターの方にスロープをつけてある。さらには、足元には慌ててこさえたフットレストのようなものも見えた。

詳細は知らないがメータもまた患っていたとは聞いていた。今年5月のイスラエル・フィルの来日が中止になっているのだ。

オーケストラが待ち、しばらくすると上手の客が拍手を始める。だが、すぐにメータの姿は見えない。杖をつきながら、介添人に支えられながらのゆったりとした登場である。

しかし、一度振り下ろしたタクトは明晰だ。モーツアルトではオーケストラも緊張したのか、しばしば縦が合わないこともあったけれど、マーラーが始まると、もうそこは別世界のようにキラキラしている。

しかし、「巨人」というのは中二病の塊のような音楽だ。最近でも、ネゼ=セガンやネルソンス、あるいはルイージなどで聴いたが、指揮者としてはアクションを見せる格好の舞台だ。この後も、ハーディングやドゥダメルと続くようだけど、まだ青春の残照を感じさせるような「若手」が振るイメージがある。

少々の傷がある演奏でも、「ホルンが立つなら七難隠す」という感じで、アマチュアを含めて一定率の感動が得られる。

しかし、音楽ってそういうことじゃないんだなあとしみじみ感じる。この夜のメータは、マーラーとオーケストラと客を結ぶ三角形の真ん中にいて、憑依したかのように音楽を呼び起こしていた。

いままで聴いた巨人とは異質の体験だった。

自らの動きは少ないが、あの席に彼がいて、どこからかマーラーの気持ちを2018年の東京に連れてきたようだ。それが本来の演奏家の仕事と理解してはいるものの、舞台の上で透徹した存在になることはとても難しく、そういう場に巡り合うことは稀だ。

とても貴重で幸せな時間だった。オーケストラが退いたあと、車椅子に乗って舞台に戻った彼に対して、みなそうした感謝をつたえたかったのではないか。



もう1ヶ月以上も前だが、上野で行われていた藤田嗣治の展覧会に行った。

まだそれほど混んでいることもなく、ゆっくり見ることができた。年譜を追うようにした構成であり、彼の作品を見るということ以上に、彼の人生を追うような感覚になる。

一人の、それも波乱に満ちた芸術家の生涯は興味深いものがあるけれど、では、作品を見て心が動かされるかというと、それはまた別の問題だなあ、と改めて思ったりもした。

藤田嗣治の作風は、生涯を通じて大きく変化する。それは、多くの芸術家に見られることだろう。

でも、じわじわと滲むようにして変化する人もいるし、天啓を得たかのように転換点の作品を描く人もいある。そして藤田の場合は、ある時期にクルッと舞台が回るように、別の顔が出てくる。その舞台回転は何度も起きる。

藝大では黒田清輝門下らしい光を見せるし、パリへ渡ればキュビズムを難なく模し、モディリアーニをなぞる。あの乳白色はたしかに「発明」だと思うけれど、その後南米では、全く異なる光を描き、そして戦争画へと続く。

しかし、僕の心の中で、何らかの共感のようなものは湧いてこない。

もっとも、普通の人が偉大な芸術家に共感できるわけない、という考え方もあるだろう。

でも、僕はちょっと違うと思うのだ。 >> 「出来過ぎる画家」藤田嗣治を見て、『ゴッホの耳』を思い出す。の続きを読む



「フィデリオ」が終わった。

といっても、普通の人には良く分からないかもしれないが、新国立劇場で上演されたベートーヴェンの「フィデリオ」というオペラの演出が大胆というか奇抜というか、日本のオペラ村ではああだこうだと盛り上がったのだった。

計5回の公演は結構客の入りも良かったけれど、仮に満席でも延べ一万人弱くらいなんだから、やっぱり村な感じだ。そして、この村はいろいろと口うるさい人も多い。

そもそも、フィデリオというのは突っ込みどころの多いオペラだ。ベートーヴェンも相当悩んだのか、序曲だけでもたくさんある。で、内容はいたって単純。

とある悪人の不正を暴こうとした男は無実の罪で刑務所暮らし。そこに男装した妻が忍び込んで看守のもとで働き、地下牢の夫と再会。悪の総統に見つかり殺されかかるところで、正義の大臣が到着して「お裁き」となりめでたしめでたし。

思ったより、簡単に書けた。しかし、ベートーヴェンというのは、作劇が苦手なのだろう。最初の序曲から30分くらいの歌は、いわば「現状説明」だ。話が前に進まない。その上、全体として「私はこう思う」という歌がやたらと多い。何かに似ているかというと「第九」のような感じだ。 >> 新国立「フィデリオ」とクラシックの憂鬱。の続きを読む