2016年12月アーカイブ

cosi_fan_tutte_2016_245日曜日の夜は、家人が友人たちと食事に行くという。

最近自宅近くにはどんどん新しい飲食店ができるので、1人で偵察メシに行ってもいいんだけど、なにか舞台がないかなと探した。

コンサートから演劇辺りを検索して、キャラメルボックスの「ゴールデンスランバー」も気になったけど、東京芸術劇場のコンサート・オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」のチケットがあって、しかも1FのLBブロックという、個人的にはベストなエリアが空いている。

最近、直前検索をすると、使い勝手や残席の場所はぴあよりもイープラスの方がいいことが多いんだけど、いずれにせよ便利だ。12月は、直前の検索と予約でこれを含めて3回行くことになる。

そして、この公演だけど、歌手6人のうち、2人が体調不良で変更ということだったが、仕上がりはとてもよかったと思う。

ハンマークラヴィーアと指揮のノットは全体の見通しもいいし、要所の締め方も見事。東京交響楽団の反応もよくて、木管の音程が怪しいところもあったけど響きが充実しているから、まあいいか。

「コジ・ファン・トゥッテ」は、まあ話のリアリティは妙だし、結末もスッキリしないかもしれないけど、これは「劇中劇」みたいなもので、「男が女を騙す」話は「夢の中のこと」のような「入れ子造り」になっているようにも思う。

まあ、おとぎ話として音楽を楽しむのがいいわけで、今世紀に入って評価されたというのも、聴き手に余裕ができたからなんだろう。 >> 「思い立ってふらり」が高レベルだから東京はすごい。ノット=東響「コジ・ファン・トゥッテ」の続きを読む



51huonnfobl【読んだ本】 ドナルド・キーン 『石川啄木』 (新潮社)

伝記は難しい。事実を並べるだけなら年譜で十分だし、それなら各地にある「記念館」に行けばいいだろう。

しかし、伝記にも作者がいて、そうである限りは切り取り方が問われる。その記述が、伝記対象者の作品解釈にまで影響を与えることもあって、それが難しさの根っこにあると思う。

日本におけるベートーヴェンの「楽聖」イメージは、ロマン・ロランの伝記による影響が大きいが、それによって音楽そのものへの感じ方が偏向したとも言われる。

逆に「アマデウス」のように、一本の映画によってモーツアルトのイメージは大きく変わった。

伝記作者としての1つの方法は、事実をできるだけ多く集めて多面的に記述することだろう。その1つが今年刊行された立花隆の『武満徹・音楽創造への旅』だろう。

もう1つは作者の視点で情報を削ぎ落して構築する方法だろうが、この『石川啄木』はそちらの方に近い。

僕にとって石川啄木は、もっとも好きな歌人だ。とはいえ、学生時代から関心があったわけではない。30歳を過ぎた頃に歌集を読んで、改めて驚いた。 >> 日本人への贈り物。ドナルド・キーンの『石川啄木』の続きを読む



51behgt7s2lもう、メディアというのは「残念な仕事」になってしまったのだろうか。

電通のデジタル不正からDeNAの今回の事件で、デジタル分野は大きなダメージを受けたけれども、マスメディアの信頼が上がったり、接触が回復したという感じもしない。たまたま、事件がデジタルで目立ったけれど、朝日新聞の一件などはまだ重くのしかかっていると思う。

感じるのは、「志」が低いなあ、というか「志」という概念自体が、もうないんだろうなということだ。

何でかな?と思うと、メディア産業がいろんな意味で「立派」になり過ぎたような気がする。そして、「これからはメディアだ」という時代の気分が、もうバックミラーの彼方になっていることと関係しているようにも思う。

「脱工業化」という言葉が、あった。「あった」というのは、もうそういう感覚でもないし、いまも工業だってちゃんと存在している。だから、ある時期の流行り言葉であったとは思う。

でも、その頃のメディア関係者は「本当にそういう時代になったら、どうすればいいいんだろ」とビビッていたようなところもあったと思う。

その辺りの感覚を知るには、梅棹忠夫の「情報の文明学」という一冊がいいと思う。 >> メディアの「志」を確かめるために~「情報の文明学」の続きを読む



ah_dari1六本木のダリ展に行った。会期末とはいえ水曜の16時過ぎだったので、どうにかなるかと思ったら20分待ちだった。まあ、どうにかなる程度の混み方ではあるけど、来週月曜までなので、この週末は混むだろう。

最近の美術展にしては、若い人が多い。学生のようにカジュアルな格好の人が目立つが、スーツを着ている人や、小さい子どもを連れた人もいる。

警備員が「危ないですから」と客に声を掛けていて、どうしたのかと思ったらスマートフォンでゲームをしている若いスーツ姿の男性だった。20分も待って入って、どうして絵の前でゲームをしたいのかと思ったけど、そんな感じで普段展覧会に来ていないような人も多い。だから混んでいるんだろう。

後ろの方で、カップルが会話していて、女性の声が聞こえる。

「やっぱり、色が違うわ~。私、プリンタの色って嫌い」

「おまえ、それが“差”というものやろ」

「わかってるわ!そんなこと言ってるのと違う!」

という感じで、関西弁で炎上しそうなカップルもいて、まあフツーの展覧会とは違う賑やかさだった。

それにしても、ダリというのはユニークなポジションの作家だ。有名な作品を見れば、「ああ、これがダリか」というくらいよく知られている。一方で、その思想的なバックボーンをキチッとわかっているかというと、そうでもなかったんだな、と今回の展示で改めて感じだ。

初期作品をこれだけ見たのははじめてだ。

考えてみると、僕が学生の頃は、ダリをはじめとしたシュルレアリズムの展覧会が多く開催され始めていた頃だ、西武がまだ「セゾン」なんて名乗らなかった頃で、まだあちこちの百貨店が美術館を持っていた。

公立系の美術館よりも、そうしたところで開催されていたのだけれど、僕も結構行ったと思う。

印象派などはいかにも「ベタ」だし、かと言って抽象画はわからない。そういう時に、シュルレアリズムなどは「アート知ったかぶり」をして、文化的気分に浸るのにちょうどよかったんだと思う。

そして、いまや日本語で「シュール」という言葉が定着していて、「シュールな笑い」のように誰もが使う。その由来は「シュルレアリズム」のアートなんだろうが、「非現実的」「ぶっ飛んでる」くらいのニュアンスだろう。もっと昔だと、「ナンセンス」と言われていたような感じだろうか。

ただ、そうして「シュール」と言っている人も、その由来の絵を見ているとは限らない。

そして、「シュール」の本家本元の絵を、確認する。「そうか。これが、あの“シュール”の元だったのか」と。

日本におけるダリ展というのは、そういう意味もあるように思う。

[frame style=”width:120px;height:240px;” marginwidth=”0″ marginheight=”0″ scrolling=”no” frameborder=”0″ src=”//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=aling-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=B01K4RFIK0&linkId=7ba2469f7b07a30cbc7aedce2325fecb”]



71yexlkwial経済産業省が、実証実験として国会答弁をAIに下書きさせるというニュースがあった。SNSに記事をシェアしたら「虚構新聞か」という声があったが、妻は「星新一にありそうだ」と言っていた。

僕が気になるのはとても単純なことで、あんな答弁のような文章を学ばせたら、AIがダメになっていくんじゃないか。そのことに尽きる。

新年早々に、囲碁の勝利に始まりAIというのは実質上の「流行語大賞」なのではないかと思うが、「答弁AI」で何となく年末のオチという感じになってしまった。

とはいえ、AIを巡る本なども多く、その殆どは「未来」を論じるものだ。しかし、哲学的な深い考察がなされているものは、早々多くはない。

僕が読んだ中でお薦めしたいのは、この「人間さまお断り」だ。著者のジェリー・カプランはスタンフォード大学の先生であり、多くの企業にも関わった人である。

AIの入門書としては松尾豊氏の「人工知能は人間を超えるか」がお薦めだが、その松尾氏が帯にメッセージを寄せている。

「驚いた。文句なく、ここ数年で読んだ人工知能に関する書籍の中で最も感銘を受けた」ということだけど、この本は単なる予測や煽りではなく、AIの本質を突いていると思った。

たとえばロボットが「犯罪」を犯した場合はどうなるんだろうか?というお話。 >> トランプの「ロボット制限令」という妄想。~『人間さまお断り』はAI本の白眉の続きを読む