テオドール・クルレンツィス&ムジカエテルナ

テオドール・クルレンツィス[指揮]パトリツィア・コパチンスカヤ[ヴァイオリン]ムジカエテルナ[管弦楽]

2019年2月11日 15時 すみだトリフォニーホール

チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35 (アンコール)ミヨー:ヴァイオリン、クラリネット、ピアノのための組曲 作品157b 第2曲/リゲティ:バラードとダンス(2つのヴァイオリン編)よりアンダンテ/ホルヘ・サンチェス・チョン:”クリン”1996−コパチンスカヤに捧げる

チャイコフスキー/交響曲第4番 ヘ短調 作品36

(アンコール)チャイコフスキー:幻想序曲《ロメオとジュリエット》

 

というわけで、曲目だけでこんな長くなってしまったけれど、単純に「感動した」とかいうレベルを超えて、オーケストラを聴く幸せをこれほど味わった経験はそうそうない。そして、彼らの音楽を「革命的」と評して、「クラシックはつまらない」ということばだけをつまみとって論じるのもちょっと違うのかなと思う。

この日のチャイコフスキーの4番は演奏的には正統的で、正面からぶつかってキッチリと仕上げている。「ムジカエテルナ○(寄り切り)●チャイ4」という感じの演奏で、けたぐりも張り手もない。いや、両国が近いからといってこういう喩えもどうかと思うがそういう演奏だ。

そして、彼らが体現しているのは「オーケストラで奏でることの幸せ」なんだろう。よく「指揮者がいないオーケストラ」を理想的な組織に喩えることもあるが、別に指揮者がいて邪魔になるわけではない。ただ、指揮者を「シェフ」などと呼んで万能の王のように崇めればいいとも思わない。

実は、そうすることがレコード会社やマネジメント企業の「商いに都合がよかったんじゃないか?」ということは今世紀に入る頃にバレてしまっている。そんな中で世界のクラシック業界が右往左往する中で、出てきたのが彼らのコンビなのだろう。

ある意味これは、「世界水準の学園祭」みたいなものだと思う。プロのオーケストラが「今を生きる喜び」をここまで表現して、観客とともに一期一会の時を過ごす。立って演奏するので、最後の一音が鳴り響いた時に弦楽器の弓が「どうだ!」とばかり天を突き、何かに憑かれたように熱狂の渦が巻き起こる。

前半のヴァイオリン協奏曲は、それこそ「普段は聴けないような演奏」ではあったけど、これはソリストのスタイルが大きく影響している。チャイコフスキーでは珍しいけれど、バロック時代の協奏曲ではこういうのはあると思う。

ただ、コパチンスカヤの音程が第一楽章からどうも怪しくて、気になって仕方なかった。曲が曲だから難度の高い所でズレるのはよくあるけど、単純なスケールが不安定なところもあり、気になっているうちに演奏が終わってしまった。

その辺りの感覚は、オーケストラにも少々あったんだけれど、僕の不安は別のところにある。というのも、指揮者=オーケストラ=観客の「この幸せな関係」はもしかしたら、もう二度と再現されないのではないか。できたとしても、意外と近い未来にその関係は変質するのかも?ということだ。

「幸せ過ぎるのが怖い」という昔ながらのフレーズが、ふと思い出されたりする。

でも、それでもいいのかもしれない。それが、コンサートの素晴らしさなのだとすれば。



バッハ・コレギウム・ジャパン演奏会 
鈴木雅明(指揮)アン=ヘレン・モーエン(ソプラノ)マリアンネ・ベアーテ・キーラント(アルト)アラン・クレイトン(テノール)ニール・デイヴィス(バス)バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱&管弦楽)
2019年1月24日 オペラシティコンサートホール
ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調 op.125「合唱付き」

 

鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパンが「第九」を演奏すると聞いて、「これはすぐにチケットがなくなるだろう」と発売早々に慌てて買って心待ちにしていた。

オペラシティのホワイエは、どこか祝い事のようであり、どこかピリピリとした緊張感がある。でも、聴いてよかった。細かいことはいろいろあるだろうけれど、演奏者と聴衆が「もう一度この曲を確かめたい」という気持ちがホールに満ちていた。

こういうのが、コンサートの体験なんだなとつくづく思う。

ちょうど、この直前に一冊の本を読み終わっていた。かげはら史帆『ベートーヴェン捏造』(柏書房)だ。ベートーヴェンの「秘書」であった、アントン・フェリックス・シンドラーという男を追った話である。

クラシック音楽に少々詳しい人なら、ベートーヴェンの交響曲第5番が「運命」と呼ばれるのは俗称であることは知っているだろう。海外のディスクにdestinyとは書かれていない。もし書いてあれば、それはおそらくゲームのはずだ。

ただ、そう言われる由来が「運命はかくのごとく扉を叩く」と本人が言ったから、というのは事実だと思っていたかもしれない。

ところが、そうではないらしい。だって、その根拠となったシンドラーは、どうやら相当な嘘つきで、ベートーヴェンの会話帳を改ざんしていたことが明らかになっているのだ。

最初に指摘されたのは、1977年だからもう40年も経つ。このシンドラーという男の心の屈折については、この本が詳しいのだけれど、彼はベートーヴェンの晩年に彼の元へと近づき、第九の初演に東奔西走したのは事実のようだ。 >> BCJの第九と、『ベートーヴェン捏造』の彼方にある真実。の続きを読む



う~む、6月か。読んだ本が最も少なく9冊だったことに気づく。1ケタというのはこの月だけだった。­原因はあれだ。ヒトごろしだ。いや、別に誰かに殺されそうになったというわけではなく、京極夏彦『ヒとごろし』(新潮社)のせいだ。だって、1088ページだよ。硬い枕が好きなら、それもいいかもしれない。いや、厚さの話になってしまっているけど、これは何かというと「新撰組」の話なのだ。

土方歳三が「合法的に人殺したい」という理由でつくったのが新撰組という設定で、ひたすら土方目線で描かれる。まあ、青春のかけらもない権力抗争劇で、後半は100頁ずつかけて、一人ずつ土方に消されていくような展開。そして、沖田総司は「ドブネズミのような奴」と描写される土方以上のサイコパスで、竜馬はただのゴロツキ。

その直前に読んだ『悪霊』に通じるものもあるんだけど、何というかダメなベンチャー企業の、七転八倒物語にも見える。

新撰組を美しい話として大切にしたい人でなければ、楽しめると思うけど、いや疲れた。

お薦めのノンフィクションは、アニル・アナンサスワーミー『私はすでに死んでいる』(紀伊國屋書店)で、脳がうまく働かないことが人にどのような影響を及ぼすかが、多様な事例と共に語られる。

「自分の脳は死んでいる」と思いこむコタール症候群が、タイトルの由来だけど、そのほかにも離人症や自分を切断したくなる人など、人の意識の不可思議に迫る作品。

上田秀人『本懐』(光文社)は、いろいろな人の「切腹」を描いた話で、着眼点はいいと思うんだけど、読んでいるとお腹がムズムズしてくる。

レイフ・GW・ペーション『許されざる者』(創元推理文庫)は、北欧ミステリーらしい重厚な構造だけど、登場人物は軽めで読みやすい。ただ、何となく北欧の世界観に何となく飽きを感じている気もする。

本郷和人『壬申の乱と関ヶ原の戦い』(祥伝社新書)兵頭裕己『後醍醐天皇』(岩波新書)など、日本史×新書は相性がいいのかどんどん出てくる。前者は歴史をこれから学びたい人にはお薦めできる。

大澤真幸・稲垣久和『キリスト教と近代の迷宮』(春秋社)は、議論自体が迷宮に入っているようで、「宗教をアタマで理解するインテリ」の限界を感じた。

伊丹敬之『なぜ戦略の落とし穴にハマるのか』(日本経済新聞出版社)は、当たり前のようでいながら、日本企業の悪癖がきちんと整理されている。

そして、マンガ好きには興味深く読めるのが、萩尾望都『私の少女マンガ講義』(新潮社)だ。で、その講義内容もともかく質問の的確さに驚くんだけど、だって日本ではなく至りの大学での講義なのだ。なんか、読んでるとそんな感じがしないし、ある意味日本人には気づかない視点もあって、それが萩尾望都への優れた批評のなっているという驚き。

宝塚上演もあり、昨年は『ポーの一族』を再読して、勢いで限定BOXとか買ってしまったけど、やはり天才は天才で、しかも彼女の場合滲み出る人間性にも魅力がある。世の中には、すごい人がいるんだなあ。

 



バイエルン放送交響楽団 日本公演

指揮:ズービン・メータ

2018年11月22日 19:00 東京芸術劇場 大ホール

モーツアルト:交響曲第41番ハ長調「ジュピター」/マーラー: 交響曲第1番ニ長調「巨人」

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コンサートの前に、その曲の録音を聴くことは少ないんだけど、ふと思い立って前夜に「巨人」のフィナーレを聴いてみた。82歳になるメータは、この曲をどのように演じるんだろうかと何か気になったのだ。

で、スピーカーから第二主題が流れてきた時、「あ、ここかな」と思った。若き日のマーラーが書いたこの曲を、いま演じるとしたらここがある種の山場なんじゃないか。

そして、その直感は当たったと思う。あの豊かな響きはいまでも蘇ってくる。

それにしても、緊張感があって、優しく、そして力強い演奏だった。しかし、この夜の演奏会は危うい要素に満ちていたのだ。

まず、公演までひと月を切った10月下旬に、ヤンソンスが健康上の理由でキャンセル。そして、メータが代役として発表される。サントリーホールの2公演は同じプログラムとなったが、この日はマーラーの7番が予定されていたため払い戻し対象にもなっていたのだ。

一瞬迷ったのだけれど、メータの「巨人」を若い頃から得意としてきたし、僕も好きなのでこの夜を楽しみに待っていた。

しかし、会場について指揮台を見ると様子が違う。椅子が置かれているのはともかく、コンサートマスターの方にスロープをつけてある。さらには、足元には慌ててこさえたフットレストのようなものも見えた。

詳細は知らないがメータもまた患っていたとは聞いていた。今年5月のイスラエル・フィルの来日が中止になっているのだ。

オーケストラが待ち、しばらくすると上手の客が拍手を始める。だが、すぐにメータの姿は見えない。杖をつきながら、介添人に支えられながらのゆったりとした登場である。

しかし、一度振り下ろしたタクトは明晰だ。モーツアルトではオーケストラも緊張したのか、しばしば縦が合わないこともあったけれど、マーラーが始まると、もうそこは別世界のようにキラキラしている。

しかし、「巨人」というのは中二病の塊のような音楽だ。最近でも、ネゼ=セガンやネルソンス、あるいはルイージなどで聴いたが、指揮者としてはアクションを見せる格好の舞台だ。この後も、ハーディングやドゥダメルと続くようだけど、まだ青春の残照を感じさせるような「若手」が振るイメージがある。

少々の傷がある演奏でも、「ホルンが立つなら七難隠す」という感じで、アマチュアを含めて一定率の感動が得られる。

しかし、音楽ってそういうことじゃないんだなあとしみじみ感じる。この夜のメータは、マーラーとオーケストラと客を結ぶ三角形の真ん中にいて、憑依したかのように音楽を呼び起こしていた。

いままで聴いた巨人とは異質の体験だった。

自らの動きは少ないが、あの席に彼がいて、どこからかマーラーの気持ちを2018年の東京に連れてきたようだ。それが本来の演奏家の仕事と理解してはいるものの、舞台の上で透徹した存在になることはとても難しく、そういう場に巡り合うことは稀だ。

とても貴重で幸せな時間だった。オーケストラが退いたあと、車椅子に乗って舞台に戻った彼に対して、みなそうした感謝をつたえたかったのではないか。



もう1ヶ月以上も前だが、上野で行われていた藤田嗣治の展覧会に行った。

まだそれほど混んでいることもなく、ゆっくり見ることができた。年譜を追うようにした構成であり、彼の作品を見るということ以上に、彼の人生を追うような感覚になる。

一人の、それも波乱に満ちた芸術家の生涯は興味深いものがあるけれど、では、作品を見て心が動かされるかというと、それはまた別の問題だなあ、と改めて思ったりもした。

藤田嗣治の作風は、生涯を通じて大きく変化する。それは、多くの芸術家に見られることだろう。

でも、じわじわと滲むようにして変化する人もいるし、天啓を得たかのように転換点の作品を描く人もいある。そして藤田の場合は、ある時期にクルッと舞台が回るように、別の顔が出てくる。その舞台回転は何度も起きる。

藝大では黒田清輝門下らしい光を見せるし、パリへ渡ればキュビズムを難なく模し、モディリアーニをなぞる。あの乳白色はたしかに「発明」だと思うけれど、その後南米では、全く異なる光を描き、そして戦争画へと続く。

しかし、僕の心の中で、何らかの共感のようなものは湧いてこない。

もっとも、普通の人が偉大な芸術家に共感できるわけない、という考え方もあるだろう。

でも、僕はちょっと違うと思うのだ。 >> 「出来過ぎる画家」藤田嗣治を見て、『ゴッホの耳』を思い出す。の続きを読む