「誰もが音楽好き」という時代の終わり。
(2015年7月10日)

カテゴリ:マーケティング

7/3の日経電子版で音楽の定額配信サービス関連の記事で、ソニーミュージックエンタテインメントの元社長丸山茂雄氏のインタビューがあった。

印象的なのは、あっさりと「音楽の時代は終わっている」と言っていたことだ。
「もう明白で、みんながそろそろ気づいていいと思っているわけ。かつて音楽っていうのは、LPとかCDとかに入っていた。そこから聴こえる音だけで満足で きるっていう世代は、たぶん70代から40代、ぎりぎり30代まで。それより若い人は音で楽しむという習慣がない。映像が主で、音楽が従という新しい類い のソフトコンテンツにメーンが移っている。」
何でも「~離れ」というのもあまり賢そうな議論には見えないけれど、この現象は自分のような世代にとっては直感的にわかる。それは「コンテンツの私有」という概念で説明できるように思っている。

物心がつくと「自分のもの」が欲しくなる。子どもの頃は玩具や自転車などで、段々と「コンテンツ」を私有したくなる。本というのもコンテンツだが、教科書を含めて「上から与えられるもの」だ。やがて中学生になった頃から「自分だけのコンテンツ」を求めるようになる。そのコンテンツ再生のマシンとともに。

かつては、それが音楽だった。まだレコードの時代で、その再生装置は「家の備品」であることも多い。自分だけのモノにするには、カセットに録音してラジカセで聞く。ラジカセを欲しかったのは、「コンテンツを私有したい」という欲求があったからだった。そして、そのコンテンツは「音楽」しかない。

だから、皆が音楽好きだったというより「好きなミュージシャン」を言えることが「たしなみ」だったのだと思う。それは「好きな異性」がいるはずだ、というのと同じようなものだった。

考えてみれば音楽を私有できない時代は「好きな作家」を言えることが、また当たり前の嗜みだった。僕らの世代も「本を読まない」と言われたものだが、その上の世代は本くらいしか私有できるコンテンツがない。旧制高校の卒業生は、そりゃ教養があるわけだ。

自分は今でも音楽が好きで、先日も自宅のコンセント交換したりしてるけれど、世の中では少数派なんだとつくづく思う。そもそも「音楽が苦手」な人もいるだろうし、「音楽が嫌い」という人もいるだろう。

だから「誰だって音楽が好き」というのは、再生装置が個人化したこの40年くらいの幻想だったのではないか。ラジカセからipodまでが一つの時代で、スマートフォンの普及とクラウド化で、映像の私有化が一気に進んだ。

丸山氏が言う「映像が主で音が従」というのは、「私有できるコンテンツの拡大」が理由だと思う。そして、ダンスの必修化もそれを加速するかもしれない。インタビューでEXILEについて「曲がどのくらいいいか誰もそれほど気にしてないよね。」は身も蓋もないが、まあそうだよな、と。

音楽を生業としている人にとっては厳しい時代だけど、市場の間口よりも、個々人の「奥行」に注目すれば可能性はあると思っている。「誰もが」という幻想の後にこそ、本当にいい音楽が生まれてくるんじゃないかな。