(2012年1月27日)

カテゴリ:キャリアのことも

10年ほど前、まだ学生だった彼が昨秋に起業したというので、食事をした。ささやかだが、お祝いである。いわゆるネット広告界隈の仕事をしているのだが、最初に知り合った時に彼はインターンだった。
就職の相談に乗ったりしつつ、久しぶりの再会だった。年齢でいうと15年ほど下ということになる。考えてみると、この10年あまりに増えた知り合いの殆どは、自分よりもかなり若い人ばかりだ。出会った時は20代前半ということになる。
彼らと話していて思うのだけれど、本当に世代間の壁ってそんなに分厚いのかなと思う。普通に話していて「そうだよね」となることはお互いに多い。
若手が上の世代に対して文句をいうのは、ある種普遍的な話だろう。それでも、多くの組織がうまく行っている時は「世代を超えた連携」というのが当たり前だ。若い人だって、上の世代を単に忌避しているわけではない。むしろ「お手本にしたい上司」へのニーズは多い。スポーツの世界でも、小説などでも「師弟関係」はよく描かれてる。
「タテ社会」という言葉が、何となく束縛性が強いのかもしれないけれど、実は結構楽しいものだったりする。それでも、若い人が会社組織に懐疑的なのは「タテ社会」が嫌なのではなく、閉鎖的な「ハコ社会」に問題を感じていると思うのだ。

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(2012年1月24日)

カテゴリ:キャリアのことも

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僕が入社した頃、コンピュータ端末は部屋にあったが、自分のデスクでは鉛筆と原稿だった。それが広告の制作室の風景だった。
入社3年くらいした時に、仕事の関係でラップトップのワープロが入手できたので、それを使うことにした。得意先も喜ぶし、まあ便利だから使い始めたのだけれど、それはかなりの少数派だった。
もう、家庭用ワープロも普及し始めていたので、広告制作の世界のほうがその辺りは頑迷だったのだ。
実際、70名ほどの部門で、僕以外にデスクでワープロを使っている人はもう一人の先輩だけだった。彼はコピーライターだったが、以前から東芝の「ルポ」を愛用しており「僕はルポライターだから」などと言っていたことを覚えている。
その後、僕は転勤してその先輩とは職場が離れた。その後、彼は休職して大学院に行き、僕が研究開発に異動してから一緒にプロジェクトもやった。
そして、やがてその先輩は学究の道に入った。その、何年か後に僕も会社を辞めることになる。
今回の新刊を出す上で、戦後の世代論をひも解く必要があったのだが、そこでお世話になったのが『族の系譜学』という本である。著者は、難波功士さん。四半世紀前の広告会社の制作室で、ワープロを使っていたもう一人の方だ。現在は関西学院の教授である。
その頃、自分たちはたしかに少数派だった。そして、時間が経つと、その少数派は会社を離れて、それでいてまた道が交叉している。やはり、少数派はそれなりの道をそれぞれで歩むのだろか。
いま職場で「少数派」の人は、いろいろと不安を感じるかもしれない。ただ、そのこと自体に焦ることはないのだ。無理やり多数派になることはない。
もちろん、無理やりに少数派になるべきだとも思わない。ただ、多数であることだけに「安心」していても、それは全く「安全」とイコールではない。そして、僕はどうしても「少数派」にシンパシーを感じるのである。
■新刊「世代論のワナ」を出しました。こちらのブログをご覧ください。



(2012年1月19日)

カテゴリ:キャリアのことも
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この言葉は、とある評論家の方にお会いした時に聞いた言葉だ。コラムニストとしてはかなり有名な女性で、若者論に強い。
そして、もちろんプラスの意味に使っている。補足するとこうなる。
「だって、経験が少ないのに、あれこれやってみたがるんだから、バカな結果になるわけでしょ。それなのに、最近は大人がムキになって”バカな若者”を糾弾してるのは何なんだろ」
それは、大人に余裕がないんじゃないか?という話になったけど、そういえば彼女は余裕があった。
それ以降、若者に対して苛立ちを覚える時に自己分析をしてみると気づくことがある。
8割方は自分に余裕がない時。で、後の2割はホントにバカ。
でも、「バカ率」からいうと、全世代でそのくらいはフツーに存在しているので、特に世代の問題ではないだろう。
これは、加齢による2つのバイアスが作用しているんだろうと思う。
1つは「過去の自己過大評価バイアス」だ。「自分が若い時には、もっとちゃんとしていた」という奴である。多分違う。80年代の学生にツイッターを使わせたらいま以上に大量のバカが発見されたはずである。
もう1つは「現在の自己過小評価バイアス」だ。つまり「大人」の側に自信がないので、若い人の振る舞いや言動に対して過剰に苛立つ。バブル崩壊後の世代論に余裕がなくなってきたのが象徴的だと思う。
もっとも学生がマジメになればなったで「オレが若いころはもっとバカだった」という人は必ず出てくるのだから、若者論というのはある意味大人の不安の反映なのだろう。
そんな自戒も含めて、新刊「世代論のワナ」を出しました。こちらのブログをご覧ください。



(2012年1月16日)

カテゴリ:キャリアのことも

20年近く会社勤めをして、フリーランスになって7年あまりが過ぎた。一度の人生の中で全く異なる生活ができていることは、面白いと思っている。ただし、フリーランスが会社員に比べて「優れた働き方」だとか「優秀な人は会社に残らない」という声が聞こえると、「それは違うだろう」と思う。
「働き方」の違いが、人の優劣につながるわけではないからだ。
ただ、昨年くらいから会社勤めについての懐疑的な声が、何となく強くなっている気がする。それはソーシャルメディアで「つながっている」という感覚や、「ノマド」という言葉の一人歩きも重なり、そこに震災後のリセットされた空気が重なっているのだろう。
そもそもfreeという言葉は、「解放」という意味合いがある。「束縛されない自由」だ。「ストレスフリー」「アルコールフリー」のような表現もある。
フリーランスは、たしかに組織からは束縛されない。しかし、その一方で多くの場合は企業組織との取引で仕事が成立している。おカネやモノの流れの多くは企業を通過していて、その流れがどのようにして個人に回っていくのかという「流れ方」において、会社員とフリーはたしかに違う。しかし、おなじカネの流れの中にいることはたしかだ。
それを承知で、フリーランスが誇りを持つのはいいのだけれど、会社員の仕事に敬意を払わない人が増えたり、意味もなく優位感を持ちたがる人が目立つのは、ロクでもない混乱を生むだけだろう。
「会社の名前で仕事をする」よりも「自分の名前で仕事をしたい」という若い人の声はよく聞く。ただし、フリーランスというのは「組織と仲間を背負って仕事している」ことからも、またフリーなのだ。
会社勤めに懐疑的な学生などもいると思うけれど、「謙虚さを持たないフリーランス」の言うことだけはとりあえずスルーして欲しいと思っている。



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正月休みが明ける頃になると、ちょっとした孤独感に見舞われる。
フリーになると、12月20日頃に店じまいとなり、正月のスタートも遅い。別にさぼっているわけではない。しょっちゅうクライアントに通うようなビジネスではないので、年末年始は先方もいろいろな年中行事に追われるのである。
二週間ほど社会と離れて、昨日あたりからさすがに稼働しなくてはいけないのだけれど、ここにちょっと時間がかかる。昔のクルマの「暖気運転」という感じだろうか。なじみの店に行って、好きなものを食べて、そのあたりからようやくその気になる。
会社にいた頃は否応なく、仕事が動き出す。一方で、「自分で自分を立ち上げる」というのは、それなりに初期エネルギーがいるのだ。
しかし、仕事のメールが来たりして「やらねばなるまい」という気になってくると、アタマの回転数も自然に上がってくる。
そして最近になって思うのは、「仕事を通じてまわりの人々に”生かされている”んだな」という感覚なのだ。
たしかに、僕は自分一人で仕事をしている。しかし、それは仕事を頼んでくれる人がいるからであって、その人たちに”生かされている”ということが厳然たる大前提であり、仕事とはそうした結びつきなくしては成り立たない。
世捨て人のように、山奥に一人住み働く陶芸家のような人もいるが、誰かがその人の茶碗でも買わなければ、飢えるだけだろう。人が働く上で人との関係は必須だし、だからこそその関係で多くの人が悩むのだ。
なんでそんなことを考えたかというと、高広伯彦さんの『「嫌われ者」は周囲が作り出すのではない。』というエントリーを読んだからだ。僕は、引用元のブログも読んだのだけれど、実は何度読んでも意味がわからなかった。

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