一昨日に書いた、『「自分はこれだけたくさん働いた」と言うのは、もうやめよう。』という記事について補足を書いておきます。

過労が原因で自殺に追い込まれる場合、労働時間だけが原因ではありません。それは同記事にも既に書いています。

しかし「自分だってたくさん働いたけれど周囲にフォローされた」という声も、あちらこちらでたくさん目にしました。だから、「労働時間だけに目を奪われずに、職場として助け合うことが大切」という考え方は正しいと思います。

それでも、まず「長時間労働自体が問題」ということは改めて訴えたいと考えます。

理由は3つです。

まず、1つ目。「長時間働いたけど平気」という人はもちろんいます。一方で標準的な労働時間の人に比べて、「長時間労働で心身が蝕まれる」ということもたくさんあります。さまざまなケースから、長時間労働は人を追い詰める可能性を高めることはわかってます。

また職場全体の労働時間が長くなれば、互いを助け合う余力が低下するでしょう。

労働時間が長くなることは危険性を高めるのだから、そうしたことは早めに除去するのが当然だと考えます。

2つ目は、そうした「経験談」がネットなどで独り歩きすることで、何らかの「空気」になるリスクが高まっていると思うからです。直接聞く時には、より具体的な話として、いわば「注釈つき」で理解できますが、いまの時代では空気だけが先行します

もう1つの理由は、「強者の論理」で議論が進むことへの危惧があるからです。 >> 「長時間働いたけど大丈夫だった」が、強者の論理になることを心配する。の続きを読む



長時間労働で疲弊した社員が自殺したケースについて、会社側の責任を認めた司法判断が確定したのは2000年のことだ。この判決は会社の安全配慮義務などの責任を認めた画期的なもので、人事業務に携わる人はもちろん、法曹の仕事に関わる人にとっても重要なケースだった。

この時の被告となった会社は電通で、自殺した社員は新人の秋頃から勤務時間が増加し、入社2年目の夏に命を絶った。1991年のことだった。

それから四半世紀が経ち、昨日、電通社員が同様の状況で自殺して労災認定されていたことが明らかになったが、彼女も1年目だ。

今回の事件では、疲弊した彼女のツイートなどが残っていて報道もされているが、あまりにも悲痛だ。

この職場の実情についての推測などは一切するつもりはないが、改めて自戒をこめて一つのことを書いておきたい。

それは、単純だ。こういうケースについて、かつて長時間働いた経験のある人間が「自分はもっとたくさん、○○時間働いた」ということは全く意味がない。むしろ、苦しんでいる人をさらに苦しめるだけだろう。

たくさん働いても平気な人がいる。一方で、勤務時間に関係なく疲弊してしまう人もいる。実際に命を絶った人のケースはさまざまだ。だから労働時間の長さ「だけ」が原因とは限らない。理由が複合的なことも多い。

ただし、長時間労働が恐ろしいリスクになることはたしかだろう。睡眠不足は判断力を低下させて理性を失わせることがある。孤独な作業は、過度な心理的圧迫を招く。

そういう経験を乗り越えたとしても、それは長時間労働を正当化しない。

「自分は大丈夫だった」というのは勝手だ、という意見もあるだろう。しかし、そう言った言葉自体が、また見えない圧迫を生む。

そして、見えない圧迫こそが長時間労働がなくならない最大の原因だ。

「俺の若い頃は**時間働いた」「海外の連中だって無茶苦茶頑張るやつがいる」「私の睡眠時間はたったこれくらいだけど平気」

そういう言葉は、胸の中にしまっておこう。

それが、彼女の無念に対して、また同様の環境で苦しんでいる人に対して、まず僕たちができる最初のことじゃないだろうか。

【追記】ちなみに自殺については「自殺稀少地域」を分析したりレポートした下記の2冊がとても示唆的だ。職場にも応用できる話だと思うし、「稀少地域」の条件を満たしていない職場は多いと思う。こうしたアプローチはこれから重要になるだろう。



日経電子版に「出世ナビ」というコーナーがあって、なぜか懐かしい気持ちになった。

会社員じゃないから、ということもあるけれど、それにしても「出世」という言葉は、死語とは言わないまでも、耳にすることが少ないと思う。

死んでないけど、結構重篤というか、なんというのか、今時じゃない感じもする。

で、ふと気になったけど、この「出世」って英語では何というのか。

調べていくと、1つはpromotionだ。ただ、これは組織内の「昇進」にあたる言葉だろう。地位が上がるのはたしかに出世だけど、ちょっと物足りない気もする。

そして、もう一つはsuccessになる。ただ、英和でsuccessを引けば、もちろん「成功」がまず書かれていて”make a success in one’s life”や”succeed in life”が「出世する」となる。(プログレッシブ英和辞典)

やっぱり、日本語の出世にピタリとくる言葉はないように思う。

この出世という言葉は、もとは仏教用語だ。「俗世間を出て仏門に入ること」という意味があって(岩波国語辞典)、ここから転じたと言われる。そして立身出世というような言葉が出てきて、今の意味につながったのだろう。 >> 「成功」したいか、「出世」したいか。の続きを読む



今年の夏は、「ポケモン・五輪・ゴジラ」の三大噺のような感じだった。高校野球は興味ないんだけど、「吹奏楽部がコンクールに出ないで甲子園に」というトピックもあった。

世間のニュースとは別に、中高生にとっては部活は一大事なんだろう。

最近は部活が結構大変そうだなと、という印象がある。知り合いなどの話を聞いても、親の関与も多くて、結構な負担になることもあるようだ。

教師側の負担も大変だという話もあるが、全体として「強制化」しているのでは?というこの記事などを読むとその背景もわかる。

最近の大学生のエントリーシートを見ると、「頑張ったこと」に中高までの部活を挙げてくることが多い。大学時代のサークル体験だと「差別化」できないということかもしれないが、高校までに燃え尽きていて、大学はもっと緩いことを求めている傾向もある。

そして、部活というのは、会社と相性がいい。だから、エントリーシートのロジックにあっているように感じる。

>> 日本の会社と、中高生部活の良すぎる相性。の続きを読む



社内の風景は会社によって、結構ちがう。

そして、会議室の雰囲気は、まさに風土を表していると思う。一番わかりやすいのは「壁」じゃないだろうか。

広告会社は、僕が入社した30年前から(と書いて今年で卒業30年であることに初めて気づいて驚いた)、壁は「使うもの」だった。

とにかく、何かを貼る。企画だったり、切抜きだったり、壁はキャンバスみたいなのものだった。

つまり「みんなでワイワイ考える」ことが、はなから当たり前だったのだ。

そういう雰囲気は、まだ他の業種では少なかったけど、段々と当たり前になった。コピー機付きのホワイトボードなどが広まった。六本木ヒルズができた時に、たしか壁面をボードにしたような部屋があったと思う。

そして、いろんなところで「ポストイット」が普及した。小さいものを栞にするのではなく、大きめのものに書き込んで持ち寄り、分類していく。いわゆるワークショップの技法も一般的になったが、この普及には広告業界の関係者も相当関わっている。

ことに地方自治体などにも持ち込んだようで、「村おこしの会議に集まった青年団」とかのニュースを見ても、ポストイットがペタペタだ。それが「民主的」だと布教をした人がいたのである。

ただし、最近は相当副作用が強いんじゃないだろうか。 >> ポストイットに罪はないけど、「ワークショップ」は要注意。の続きを読む