応仁の乱と広告営業。
(2010年5月7日)

カテゴリ:広告など
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昨日のエントリーとも関係するのだけれど。
会社を辞めた直後だから、いまから5年ほど前のことである。
リクルート出身で、とある企業のトップを務めている人がこんなことを言っていた。
「電通や博報堂の”営業”は”営業”とは言えないよ」
なぜか、という理由はすぐ後に語られる。
「だって、新人とか配属で『どのクライアントになるか』って、すごい気にしてるじゃない。つまり、その時点で受け身でしょ」
なるほど。
「営業の役割って、新しいクライアントを開拓して、既存のクライアントから新しいビジネスを生み出すことじゃない。無から有を生み出すんだから、そもそも担当なんか”無し”だっていいんだよ」
だから、大手広告会社の営業は彼から見れば”営業”ではないということになる。
これは、少し乱暴に聞こえるかもしれないけれど自分としては納得した面もある。というのも、広告会社の「営業の価値と役割」については結構アタマを悩ましたまま、結論を出せなかったからだ。

その方の指摘の通りで、広告会社の営業行為はかなり農耕的・静的なものだった。伝統ある「名門チーム」になるほど「名家の代替わり」のように、強固な縦ラインができる。これは、マスメディアを基盤としたビジネスにおいては有効な知恵だった。
そもそも、費用対効果が不透明な取引を百億単位で可能にするには、長期にわたる関係があってこそ「どうにか」なっていたのだ。
で、営業の「実際の稼ぎ」を明らかにすればいいのでは?と考えたこともあったのだが、ちょっとシミュレーションして止めてしまった。それをやると、なんというか抜本的なことが引っくり返って収集がつかないのである。
しかし、クライアントのニーズが変わったり、主要業態が変動すると、この静的安定性が裏目に出てくる。既存の収益基盤に執着するため、人的資源の機動的な配分ができない。
ひらたく言うと、「優秀なやつを引っぱがせない」状況に陥るのだ。
いまの広告業界って、見たことないけど「応仁の乱」みたいな感じなんじゃないか。蹴鞠にいそしんでいた人はアタフタで、荘園は荒れ放題で下克上は日常化。
やはり、先の方の指摘は鋭かったなと最近思い返し、別の言葉を思い出した。
自分の好きだった上司がよく言ってた「被害者になるな。加害者になれ。ビジネスではそれが合法で当然」。