小三治の粗忽者。
(2010年8月17日)

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柳家小三治独演会 8月12日 18時30分 
きゅりあん(品川区立総合区民会館)大ホール
だくだく 柳亭燕路
品川心中 柳家小三治
(仲入り)
粗忽長屋 柳家小三治  
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小三治は春先に三鷹で聞いて以来である。
落語を聞くようになって、といってもずっと聞き込んでいるわけではないのだけれど、25年くらいはなるのだろうか。父が「つまらなそうに話すんだよ」と言っていたことを覚えている。
もちろん「つまらなそうに話す」ことと「話がつまらない」ことは同じではない。十分に面白いのだけれど、ほぼ同世代には志ん朝というスターがいた。無理に比較することはないと思うけれど、いろいろな意味で「実力派」と評されやすいことも事実である。
きゅりあんというホールは、開館当初に芸大の打楽器科のコンサートを聞いた記憶がある。ひと言でいうと、過剰な反響があってパーカッションでは飽和気味だった。
あらためてホールを見て思ったのだが、客席はワンフロアなのだけれど天井が妙に高い。ワオンワオンと音が回る。燕路の「だくだく」も軽快でよかっただのが、この反響のせいで聞きとりにくくなったことがあった。
小三治が語り始めると、そうしたことが全く気にならない。発声からマイクの使い方までホールのクセをつかんでいるのだろう。
例によって、ゆったりと枕を語りつつも今日は少々ギアの入り方が悪いように感じたのだが、段々と乗ってきて「品川心中」へ。言葉の解説などをていねいにしながら、もう一段ギアを入れて、話が後半になだれ込んだあたりには、もうたっぷりと楽しむことができた。
中入り後は枕も軽く、「粗忽長屋」。これにはあらためて驚いた。
粗忽者が二人出てくる軽めの定番のネタではあるが、名人が演じるとここまで違うのかと驚く。何ていうのか、普通の家庭料理、たとえば「肉じゃが」のようなものを一流の板前が作るとこうなります、というような感覚である。
落語の「粗忽者」、とりわけ「粗忽長屋」の二人というのは「居そうな人」ではない。明らかに「いるわけがない人」なのだ。だから、この二人が現実からまったく遮断されながら、普通に会話をして、淡々と進行しているところが面白いのである。
うまくない噺家だと、「ホラ粗忽者でしょ」と自分ではしゃいでしまうのだ。
「落語とは笑いだけの芸ではない」ということで、大作の人情噺を演じることが評価の基準になっているような空気も一部にはあるようだけれど、こういう噺で素直に楽しめるという時間が一番好きだ。
あまりに暑いのでクルマで行って、サッサと帰ってしまったのだが、なんか勿体ない気がした。