夏休みに「情報化」を疑ってみる。
(2010年8月10日)

カテゴリ:世の中いろいろ
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コメント(2)
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とりあえず、夏休みな感じである。涼しいところから東京に戻ってきて、明日からは近くのホテルで冷房三昧の予定だ。読書と次作の単行本のノート作りになるだろう。
で、話は変わるのだけれど、情報で人の生活は本当に変わるんだろうか。あるいは、幸せになるのだろうか。
最近になって、急速にそういう感覚になってきた。
マーケティングやコミュニケーションの仕事をしているので、あまり大きな声では言えないのだけれども、個人的にはそんな感じなのだ。
i-padが大騒ぎになったり、i-phoneユーザーが身近で増えてきたのに、何だか全く興味が湧かない。twitterも熱心ではないし、facebookは漫然と「承認」をするだけ。この週末もダイアルアップ環境だったので、メールをやり取りする以外に特にネットも見ない。
フォースクエア(foursquare)というサービスに至っては、自分にとっては全く関係ないものに見えてくる。そもそも自分の居場所を人に教える気がないので、そもそもターゲットじゃないんだろうけど。
友達とつながって一人ランチをしなくてもすむ、とかいう記事を読むと、ますます意味がわからなくなる。いや、それに意味を感じる人もいるからサービスが成立するのだろうけれど。
いつも思い出すのだけれど、入社直後に担当したとある外資系コンピュータ企業の方がしみじみと言っていた言葉がある。
「結局、コンピュータが普及しても忙しくなるだけです」
それは広告の主旨とはまったく違うんだけれど、この人はとても覚めていたのだ。しかも理由が明確である。
「コンピュータは一時的に仕事をラクにするかもしれないけれど、コンピュータの”おもり”が大変になるんです。結局、気がつくとコンピュータに働かされる」
この頃は、当然パソコンは普及していなかったし、「そんなものかな」と思いつつ、とても印象に残っている。


まあ、彼の言ったとおりでパソコンや携帯が普及したおかげで、休みが増えたという話は聞かない。この「コンピュータ」を「ソーシャルメディア」に入れ替えても成立する気がする。
情報化、というものは生活の様式を変える。しかし、生活の本質を変えるわけではない。
i-padが出たときに、なぜ自分はそれを「欲しがらないのだろう?」と考えてみた。たしかに電子書籍に一定の魅力はある。しかし、それは紙の書籍の置き場所が大変なことになっているという個人の事情がある。蔵書をおくために、駐車場代と同じような額のカネを払って場所を借りているからだ。
しかし、いまi-padがその問題を解決してくれるわけではないらしい。いろんな情報がどこでも手に入るというけれど、別に必要はない。そういえば写真も撮らなくなった。一週間ほど旅に行って、5枚とか。だったらカメラはいらないわけで、僕のデジカメはワークショップのホワイトボードと近所のネコくらいしか撮らない。
音楽はスピーカーでしか聴かないし、ダウンロードもしない。
じゃあ、自分にとって「楽しみな時間」って何だろうと考えると、とても単純になっていることに気づいた。
友人と飲みながら食事する。知らない場所へ旅をする。好きな音楽や本を読んだりゲームをする。ネコと遊ぶ。
この4つが満たされれば、別にいいのだ。なかなかi-padの入ってくる余地がない。
ただ、これは年齢のせいもあるかもしれない。若いうちは、もっともっといろんな外部刺激が自分に入ってきたように思う。もっとも、いまの心境は十分に心地いいのだけれど。
そういうわけで、情報化と生活について考えることは、自分自身の大切なことについて考えることにもなる。
夏休みをとる人も多いと思うけれど、漠然としたことをあれこれ考えることが自分にとっては一番の休みだ。



夏休みに「情報化」を疑ってみる。」への2件のフィードバック

  1. takeshi より:

    いつでも電話・メールが出来る。
    →いつでも電話・メールが来る。

    いつでもみんなとつながっていられる。
    →いつでもみんなから見られている。

    いつでも○○が手に入る。
    →○○を手に入れるのはいつでもいい。

    何か・・・つまらないですよね(笑)

  2. 山本直人 より:

    コメントありがとうございます。
    本当に後々まで続く出会いって、実は「偶然」の作用が大きいと思うんです。人と人、人とモノなどぢどちらにしても。
    そんな感覚を持っています。