初めての「マタイ」を鈴木雅明=BCJで聴く。
(2015年4月5日)

カテゴリ:見聞きした

バッハ・コレギウム・ジャパン 演奏会

指揮: 鈴木雅明

201543日 1830 分 東京オペラシティ コンサートホール

J.S.バッハ:マタイ受難曲BWV244

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はじめて、マタイを生演奏で聴いた。この曲は演奏機会が少ないうえに、季節的にも復活祭前におこなわれることが多く、それはまた日本の年度末にも重なり、ついつい行きそびれていた。

バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)を聴くのも初めてなので、コンサートの感想というよりは、マタイという曲について感じたことを書いておこうと思った。

クラシックを聴くきっかけはいろいろだろうが、大概はオーケストラかピアノから入っていくことが多いと思う。そして、自ら楽器を演奏すると、その楽器がかかわる曲を聴く。僕もそうだが高校から大学までオーケストラにいれば、自分たちが演奏する曲を中心に聴くのでマーラーの交響曲はスコアまで持っていても、バッハのミサやカンタータはディスクすら持ってないという人もいる。というか、自分も最近までそうだった。

マタイは、最近自宅で聴くことが増えてきたのだが、始終テキストとつき合わせているわけではないので、何となく流れてしまう。これは、一度生を聴かない限り、もう一生の間を続けて流れ続けるように思い、ようやく聴けた。

「受難曲」という名前が重苦しい連想を誘うし、実際にキリストの死へ向かう内容だから、軽いわけではない。でも、全曲を聴き終わって感じたのは、薄明りのような希望だった。

バッハは、神を信じていた。それは、教科書で「信仰心が強かった」と百回読んでもわからない。でも、この曲は祈りが希望につらなることを自然に感じる。

ふと連想したのは、ベートーヴェンの「第九」だった。考えてみると、あのフィナーレは「やれば、できる」と人間が宣言した曲であって、自我が肥大したようなところがある。で、聴きながら思ったのは「もしベートーヴェンが“マタイ“を聴いてたら?」ということだった。マタイはバッハの死後長い間演奏されず、ベートーヴェンが世を去った2年後にメンデルスゾーンによって復活上演された。だから、ベートーヴェンがはマタイを知らないはずなのだが、もし知ってたらどうなってたのか。

あのような作品群は生まれたなかったかもしれないし、まして「第九」のような曲を書くことはおこがましく感じたのではないだろうか。
そんな、妄想をしながらあっという間の3時間だった。

そして、二日経ったのだが、なぜかベートーヴェン以降の音楽を聴く気にならない。なんだか、頭が掻き混ぜられるようで、ベートーヴェンの初演を聴いた人が戸惑う気持ちだけは少しわかるような気もする。

本当に貴重な体験だった。マタイだけでなく、バッハそしてBCJはこれからも聴いていくと思う。