「猫は後悔するか」問題について。
(2016年2月17日)

カテゴリ:世の中いろいろ,見聞きした
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そう、これは深いのだ。果たして猫は後悔するのか。

哲学者の野矢茂樹氏の著作『語りえぬものを語る』(講談社)の第1章の表題には「猫は後悔するか」とと記されている。

結論は、まず5行目にあっさりと書かれる。

「私の考えでは、しない。いや、できない」ということだ。異論のある方もいるかもしれないが、まずは氏の考えを追っていく。

そもそも、後悔するには、事実に反することを想像する必要がある。では、なぜそれができるのか。そのためには、「世界が分節化」されていなくてはいけない。

「犬が走っている」という事実がある。その時僕たちは、「犬」という対象と、「走っている」という動作という要素から構成されていると捉える。これが分節化だ。

分節化された世界にいるからこそ、「犬が逆立ちする」という事実に反することを想像できる。そのためには、分節化された言語が必要だが、猫はそれを持ってない。

犬が走っていれば、「走っている犬」という現実に対処するだけである。猫だけではなく、犬だってそうだろう。

という説明である。たしかに、そうだ。

実は、この命題は大変に深い。分節化された言語こそが、人類の歴史をつくってきた。朝になれば「日が昇る」という。英語ならsunriseだ。それが普通の感覚だから「地球の周りを太陽が回る」と思っていた。それを「太陽の周りを地球が回る」と、想像できたところから、真実への道が開けた。

「リンゴが木から落ちる」という目の前の事実を、地球との力関係で説明するのも、世界を分節化して理解しているからだ。

つまり、よく言われる「仮説思考」というのは、言語を持ち、論理空間をの中にいるからこそ可能だ。机上の空論、というのは悪い意味に使われるが、その空論すら作れなければ猫と同じということになる。むしろ、新たな突破口は無数の机上の空論の中から生まれるのだ。

仕事をしていく上でも同じで、新しい何かを生み出すうえで、最も大切なことは「事実でないことを想像する」という力だ。事実を追っかけるだけの人や組織は何ひとつ想像できない。平時ではそれでもいいけれど、いつか限界が来る。

というわけで「猫は後悔する」という命題を掘り下げていくと、目の前で起きているビジネスの話ともつながっていく。

この話をすると、「いや猫も後悔してるんじゃないか」という人がいる。それは、よくわかる。虫を取り損なったり、粗相をした後など後悔しているように見えるのだ。このエッセイはその辺りの命題設定が絶妙で、「ナマコは後悔するか」だったら、「するわけねぇだろ!」と一瞬で話は終わり、分節化も何もあったものではない。

そして、この本は、章ごとに結構長い注釈があってそれがまた魅力的だ。1章の注釈では猫それ自体についても細かく書かれている。筆者も同居しているようで、うっすらと結論に対してためらいを感じているようだ。

猫が分節化された言語を持たないなら、飼い主である私を本当に識別して認識しているのか。そうした思索の後にこう締めくくられる。
「飼い主としては、まだ少し寂しい気もするが、それでよしとしよう。」

本書には、そのほかにも魅力的なテーマが並ぶ。「世の中に絶対は“絶対”ないのか」「霊魂は(あるいは電子は)実在しうるのか」など。哲学をめぐる論理と思索、そして感情の交叉を鮮やかに言葉に表現されており、最高の味わいを持つ一冊だと思う。