シャッター通りを嘆くメディアの「昭和良かった病」
(2016年10月7日)

カテゴリ:マーケティング
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こういう話は統計的な分析が難しいのだけれど、実は「シャッター商店街」というのは見た目が廃れているほどに、当人たちは困っていないのではないか。

それは、肌感覚で何となく感じていた。

僕は生まれてこの方、都区内西部の似たようなエリアに住んでいるので、ほぼ定点的に見ている。そして、たしかに個人商店は減っているのだけれど、その店主が困窮したという話はあまり聞かない。

あるとすれば、バブル期に余計なところにカネを突っ込んだとか、勢い余って地方議員になろうとしたとかそういう話で、この場合は消息すら分からなくなる。

ただ店を閉じたとしても「十分働いた」という場合が多い。「潰れた」のではなく、「畳んだ」のである。子どもは十分に自立していて、もう後を継がせる必要がないという。

スーパーはダメで「野菜や肉・魚は個人商店の方がいい」という人もいるが、それは「今でも残っている店」がひときわ頑張っているからだろう。単に商店街の一等地という既得権益に胡坐をかいてたような店は、平成の初め頃に殆ど淘汰された。

「シャッター通り」をチェーンストアのせいにするのは簡単だが、多くの客は殿様商売に辟易としてたからスーパーに行ったのだろう。また、追い詰められて店を閉めたとは限らない。

そういえば近所に数件豆腐屋があったけど、一番評判のいい店は最後まで残った。「マイタッパー」を預けている客もあったくらいで、駅近くの飲食店にも卸していたが主人が急逝してしまった。店を閉めた魚屋や肉屋の主人にはたまに顔を合わせるが元気だ。もう十分に働いたのだろう。

「シャッター通り」をチェーンストアのせいにするのは簡単だが、多くの客は殿様商売に辟易としてたからスーパーに行ったのだろう。追い詰められて店を閉めたとは限らない。

東洋経済オンラインに木下斉氏が寄稿している「シャッター商店街」は本当に困っているのかという記事は、まちビジネスの専門家がそのあたりの事情を解説しているが、僕の肌感覚と同じで、以下のように指摘している。

「シャッター商店街の不動産オーナーが明日の生活にも困っているかと言われれば、そんなことはない、むしろ豊かであることが多くあります。」

ある時代に十分に稼いで、いまでも不動産収入などがあるケースも多い。本当に困ったら、シャッターを閉められないわけで、そこに補助金をつぎ込むことの問題を鋭く指摘している。

それにしても、どうして「シャッター通り」というのは情緒的に報道されてしまうのか。この問題だけではないけれど、これはメディアの「昭和良かった病」の典型なんじゃないか。

大手流通を悪者にするのは簡単だ。しかし、商店街は圧力団体として規制を求め続けて、努力しない商人を増やしたんじゃないのかな。その結果がシャッター通りなのだとすれば、「仕方ない」ことかもしれない。

先の記事には、合理的な処方箋も書かれている。こういう議論をもっとした方がいいし、そのためにも「昭和良かった病」を加速させるような報道は足を引っ張るだけだと思う。

それにしても、そういうのを好む高齢者を客にしているマスメディアは、それを止められないのか。

それじゃ、テレビや新聞が「シャッター通り」になっていくと思うんだけど。あ、もうシャッターは閉まり始めてるのかな?