自粛への「過剰適応」で疲れてないかな?
(2020年4月30日)

カテゴリ:世の中いろいろ

人から指図されるのはあまり好きではないし、空気を読んで「自粛」したような経験はなかったんだけど、さすがに今回は自分の行動を制限して、1ヶ月くらい自宅の徒歩圏で暮らしている。

考えてみると2月末に「大規模イベント中止」になって、週1くらいでどこかの舞台に行っていたから、寂しかったし心配になる。外での食事は少人数では続けていたけど、3月末の都知事の記者会見で、さすがにやめた。

仕事はオンラインで続けていたけど、私生活の不満はどうなったかというと、それなりに適応している自分に気づく。落語は生配信があるし、ベルリンやウィーンのコンテンツも見られるし、近所のテイクアウトも充実して、ジムに行かなくても早朝ジョギングも気持ちいいし、zoomで飲んでも十分楽しい。

そうやって、不自由なはずの現実とどうにか折り合いをつけている自分に気づき、「ああ、これは“合理化”ってやつなんだ」と改めて思った。人は思うようにいかないときに、自分を納得させる「防衛機制」という心の仕組みがあると言われるけど、それがいま発動してるのか。

チケットが払い戻され、カードの支払いも少なく「なんかいいんじゃないか」と思った時点で、「ああ、こうなると舞台や外食の仕事をしている人はますます大変だ」と気持ちを改める。ただ、改めたところでいまできることは少ないんだけど。

で、ふと思ったんだけど、もしかしたらいまの日本で多くの人が「過剰適応」になってるのかもしれないんじゃないか。
環境への不適応、というのは大変ではあるが本人も周囲も気づきやすい。一方で過剰適応というのはなかなかわからない。職場においても、明るく頑張っている人が実はともて疲れていたりする。配属や異動で新しい環境に来た時に、変化にたいして前のめりになるような感じだろうか。

その負担がある時に表面化して、気持ちが不安定になる。ちょっとしたことで、いきなり涙が出たり、いきなり言いようのないドキドキした感じになることもある。いま、そんなことを経験したとすれば、それは環境への過剰適応なのかもしれない。

そういった時には「あなたは十分やってるよ」という気持ちを周りが示してあげれば、好転することもある。だから、いま自制している多くの人にそういうメッセージを出すのは、要請した政治家たちの仕事だろうけど、言葉の貧しさからして期待はできない。

明らかに感染者数が減っていても、「まだ厳しい」と念仏のように言われてしまえば、報われた感じ反しないよね。

そうなると「自分で自分をほめる」ように、お互いにほめ合っていくのがいいのか。このあたりは、これから企業のコミュニケーションでも一つの切り口になりそうだ。

いずれにしても、いまの環境に「前向きに適応しよう」とするあまり、「この生活もいい」と思っていたら、どこかで負担がたまっているかもしれない。自己を過剰に抑制しているかも?そう感じたら、「そこまで前向きにならないでいいよ」と自らに言い聞かせるのもいいだろう。

「もうこんな生活嫌だ!」「早く自由にさせてくれ!」と感じるのが普通だ。その程度の適応で十分だと思えばいいんじゃないかな。

※「コロナと広告、消費者インサイト」という切り口で、レポートを書いてみました。これからの企業コミュニケーションや広告についての考察です。こちらのnoteにアップロードしているので、ダウンロードしてご覧ください。