世帯視聴率の「次」を考える。
(2015年11月4日)

カテゴリ:メディアとか
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ベムさんが、嘆いてる。今日のエントリーで、世帯視聴率一辺倒で起きている矛盾について書かれているが、じゃあどうするかというとたしかに難題だ。いつもバッサリ書かれてることが多いようだが、この件についてはやや逡巡も見られて、それほど難しい話だと思う。

「世帯視聴率」というのは、ビデオリサーチが測定し公表する視聴率であって、あのドラマが何%とか、年間1位はどことかいうのも、すべてこれだ。一般的な視聴率ではあるが、問題は「家にいる誰かが見ているとカウントされる」ということだ。

家にいなければカウントされないので、在宅時間の長い人の数字に左右される。また、家にいても「僕は見ない」「私は見る」といった場合は、「私」が見ている番組で決まる。「じゃあ、どうなるかというと年齢の高い人が「世帯」を左右する。
ただし、高齢になるほど広告の効果は限定的になる。一般的に言って、モノはたくさんあるし、あれもこれもとか思わない。あるいは将来不安で余裕がない。別に若者、とは限らなくても、40代くらいまでの人に訴求したいものはたくさんあるんだけど、世帯視聴率を競っても、あまり有効な指標にはならない。

つまり、世帯視聴率が価値の指針になっていないのに、そこから逃れられないのだ。これは他の業界にもあって、「売り上げナンバー1」を競った軽自動車業界は、いわゆる未使用車という在庫を抱えて大変なことになった。「全都道府県出店」を果たしたコンビニはセブンイレブンではないけれど、コツコツと満足度を上げてきた同社が平均日販でアタマ1つ抜けているのはよく知られている。

世帯視聴率は、広告ビジネスにおける最強の通貨だった。一方で、新聞や雑誌の発行部数は通貨としては暴落して、ネットなどの指標が新興通貨になったわけである。

じゃあ、この通貨に代わりはあるのか?近年になって、ビデオリサーチ以外にもデータを提供する動きはある。ただし、商慣習の壁は厚い。あるいはビデオリサーチ社が、世帯視聴率に代わる通貨を提供するかもしれないが、広告主と放送局の利害がからんで、想像しただけで気が遠くなるかもしれない。

ただし、このままでは世帯視聴率という通貨は、ガクッと暴落する可能性がある。それについては関係者だって、気づいてはいる。首都圏直下地震が何%と言われても、そうそう誰もが離れないような状況なのだ。

ただ、可能性の1つとして「特区」のような発想はあるのかもしれない。「地域通貨」じゃないけれど、特定の時間帯や期間、あるいはエリアなどで世帯視聴率以外を指標にして広告効果を図るというやり方だ。いわゆる社会実験と称して、高速道路値下げしたようなものだけど、日本的な漸進的変化となれば、この手の発想はあるのだろうか

ただし、この場合はテレビの視聴率だけでは完結しない。そうなると、既にインテージとニールセンが行っているような活動が注目されるだろう。
結局、個別の%や部数などの「量的数字」では意味がない。効果や満足度などを統合した「新しい通貨」を提供しないと、結局はコストと効率の競争になって、それは経済後退期にはメディアを直撃する。残された時間は、限られているのではないだろうか。