意識の高い作られた下町、谷根千。
(2016年1月29日)

カテゴリ:マーケティング,世の中いろいろ
タグ:

IMG_1328平日の午後、天気もよく時間もあったので上野の動物園に行った。芸大の卒展を見て、谷中の方へと歩いていく。外国人も含めて人が多く、かつてはガラガラだった古い喫茶店にも外で客待ちの列がある。

一休みして本でも読もうと思ったのだが、どうもしっくり来る店がない。古民家を改造していて、オーガニックや何やら書いてあったり、畳の席だったりする。マーケティングしいてるのはわかるのだが、そういう店じゃなくていいのだ。

とりあえず入った店は、近所の人のたまり場になっていた。芸大の学生を囲んで、いろんな人が話しているのだが、居酒屋のように喧しくてロクに本も読めない。喉も乾いたので生ビールを頼んだのが、サーバーをまともに洗っていなのか酷い味がした。

早々に退散して千駄木の方に歩いて行ったのだが、とにかく居心地がわるい。なんでだろうと思ったら、すぐに理由がわかった。前にも書いた「ていねいな暮らし」とか好きそうな人が好む、あの独特な雰囲気があるのだ。

コーヒーと和風の甘味を出す店が目立ち、「昔ながらのナポリタン」とかあり、手染めの製品を売っていて、敢えて言えば「ていねいな暮らしのテーマパーク」なのだろう。

ふと連想したのは、70年代後半の清里だ。なぜかいきなり「カワイイ」文化が流入して「高原の原宿」と言われた。今は落ち着いたようだが、いったいあのブームは何だったのだろう。とりあえずキノコの入ったパスタは「森の小人たちのスパゲティ」になり、シーフードグラタンは「海の妖精のグラタン」になってしまった。

いまの谷根千は、あの空気に近い。こういう作られた町からは、早々に退散したい。僕にとっては、歩いているだけでむず痒くなる道だ。

そしてガイドなどでによるとこの辺りの街並みはなぜか「下町情緒」ということになっているが、そもそもあの辺りは下町ではないだろう。

エドワード・サイデンステッカーの『東京 下町山の手』にはこうある。

「東京は南と西に恐ろしく拡大したので、今日では、この南や西の地域に住んでいる人々の目から見ると谷中などずいぶんと北ないし東に当たる。だから当然、ここは下町の一部だと信じて疑わないのだろうが、実は谷中は、明治の新しい山の手だったのである」

下町は武蔵野台地の東にある低地であるという視点からの指摘だ。そして、そのエリアは江戸時代に町人が住んでいた町だ。

うまく言葉にはしにくいが(だったらこんなこと書くなと言われそうだが)、僕の感じる下町には、もっとガサガサとした感じが漂っている。神田はもちろん、浅草や上野、さらに深川界隈などの空気感だ。猥雑とは言い過ぎだが、今の谷根千に感じる人工的な意識の高さとは全く異なる。

江戸時代の街遊びというのは、男が中心だった。そういった時代の、ある種の立ち振る舞いも許されるのが下町なんだろう。

谷根千は作られた下町だ。だからこそ、人は集まる。でも、「下町的な街並み」だけでは、「下町の文化」にはならないのだろう。

※清里の当時の建築などについてはこちらのページがおもしろい。