2016年05月アーカイブ

「笑点」という番組は不思議なもので、中学生の頃までは家で見ていて面白いと思ってた記憶がある。ところが、実家を離れると見なくなり、ある日に大喜利を見たら全然笑えなかった。

というわけで、その後見る機会もなかったのだが、今回は久しぶりに見てしまった。妻ともども落語好きなので、寄席や落語会には結構足を運ぶわけで、新司会者はさすがに気になる。

メディアでは4月30日「歌丸引退」報道から、ああだこうだと書きたてていた。外部招聘か内部昇格か、とかもう大企業の人事そのもので、落ち着いたところは「最年少役員抜擢」ということになる。

これで、数年後に歌丸が「何も新しいことをしていない」と言って、クビにしようとして返り討ちにあえば、まるでどこぞの大企業のようじゃないか。

というわけで、いま報道を振り返るとタモリやたけしの名を挙げて「芸能界は大騒ぎ」とか書かれているものもあって、可笑しくなる。

だって冷静に考えると今回の騒動はきちんとシナリオが描かれていたはずだ。人気者のスケジュールをおさえるのは相当大変だ。発表から3週間の間に人選できるわけがない。 >> 笑点の人事をクソ真面目に論じてみる。の続きを読む



ちょっと前の記事で、厚切りジェイソンの講演がこちらに載っていた。

『厚切りジェイソン「空気を読むな、自分で考えろ」SLUSH ASIAで日本人の悪習をぶった切る』

どこか既視感のあるタイトルなので、どことなく見当はつく。そうですか、日本人は協調性重視で、個性を伸ばせない。そういう話だ。

後半の、本人の挑戦譚は面白いと思うけど、前段の日本人論は話半分に聞いたほうがいいんだろう。まあ、これは彼に限ったことではない。そういうと、よろこぶ日本人がいるからそういう話になるんだと思う。

しかし、日本人が極度に協調的で没個性的かというとそうとは限らない。そういう話は、大概日米の比較から来ている。彼のようにバイタリティが溢れる人間から見れば、そう見えるだろうが、世界にはいろんな国がある。

もちろん、日本の義務教育は画一性を求めるし、サービスが杓子定規になることもある。ただ、ファーストフードの統一マニュアルは元々米国生まれだし、日本だって融通の利く店はいくらでもある。

本当に米国人は自分のアタマで考えているのなら、相当の差別主義発言を繰り返すドナルド・トランプを大統領候補に選んだ人々の熱狂はどう説明するんだろう? >> 厚切りジェイソンの言ってることとかは、話半分に聞いたほうがいいと思うわけで。の続きを読む



718ZlaU0XrL深緑野分 『戦場のコックたち』 早川書房
最近、日本のミステリーの新作を読むと、なんかスッキリしないことが多かった。

先日書いた「王とサーカス」とか「64」とか、まあ世間の評判と自分の好みがズレているんだろうけど、この「戦場のコックたち」には結構引き込まれた。

ミステリーとしていろいろ突っ込むとキリがないかもしれないが、「次作も読んでみたい」と感じがする。デビューの短篇集に続いて、これは初の長篇となる。

ただし、いわゆる「連作」というスタイルだ。プロローグとエピローグを挟んで5つのエピソードが語られる。ただ、登場人物は同一という体裁だ。

というように書くと、北山薫のシリーズを思い起こすかもしれないが、タイトルとおり舞台は戦場だ。人は次々と天に召される。

この小説が意欲的だな、と思うのは、まず舞台の設定だ。第二次世界大戦の末期、あのノルマンディー上陸作戦に参加した米軍の群像を描いている。主人公はいわゆる「特技兵」で、タイトルの通りコックだ。 >> ジンワリ響く群像劇のミステリー『戦場のコックたち』の続きを読む



ラトルとベルリンフィルを聴いて、一週間が経とうとしているが、いろいろと反芻したくなるコンサートだった。チケットの入手自体が相当難しそうな中で「第九」に行けたのは幸運だったと思うが、曲の特性もあって終わった直後はホールも自分のアタマの中もグワングワンと揺れ続けたような感じだ。

ラトルがステージから語り掛けた、最後のメッセージを聴いて、もうベルリンフィルとの来日は最後になるんだろうな、と思った。個人的にはロンドン交響楽団とのコンビにも、別の期待をしている。

ベルリンフィルとの来日では、王道の名曲が多かったけれど、シベリウスやエルガーなどを聴けたら面白いだろうなぁと思う。いずれにせよ、これほどの余力を残してベルリンフィルを去る指揮者は初めてだろう。

ラトルとベルリンフィルの活動を「評価」できるほどの経験も知識もないので偉そうなことは書けないが、少なくても相当の危機感を持っていることはたしかだろう。

ちょうどラトルが就任してまもなく、クラシックの世界では「新譜」の価値がどんどんと失われてきた。

そもそも、昔の曲の新譜が後から出てくるのも不思議だが、20世紀はそうだった。録音技術が発達して、「新しい録音」自体に一定の価値があった。そして欧州以外でもファンが広がり、大衆化が進んだ。そして、カラヤンに代表されるスターが、覇を競い、メディアも煽った。 >> トップランナーこその危機感。ラトルとベルリンフィルの続きを読む



先日とある落語の会に行ったとき、マクラで都知事の話になった。

まあ、毒舌で鳴らす噺家だったんでケチョケチョンだったのだけれど、客席は大うけで「もっとやれ」という感じで、話している方が「マアマア」と抑えるくらいだった。まあ、止む無しをいう感じもする。

「パーティで政治と宗教の話をしてはいけない」というのは、けっこう昔から言われていることだろう。僕は、そんなパーティに縁がない頃に聞かされた。あと、祖父から教わった、パーティの心がけというのも思い出す。

それは「空腹でパーティには行くな」ということだった。たしかに、そうだ。

まあ、空腹で落語に行ってもいいかもしれないが、落語のマクラでも政治の話は難しいと思う。そもそも政治の話自体でシラけることも、十分にあるのだ。

そう考えると、女性が多い席で政治ネタをする人は少ない。年齢層が高めで男が多い時だと、時折マクラでふってくる。

そして、一番難しいのは、「それなりに人気がある政治家」の場合だ。

勘のいい噺家は、この辺りをちゃんと捉えている。そりゃそうだ。一定以上の支持率がある場合は、客の中にもそれなりの支持者がいる。そこを貶しても反応は鈍い。 >> 落語の客席でわかる政治家への「支持率」。の続きを読む