トップランナーこその危機感。ラトルとベルリンフィル
(2016年5月21日)

カテゴリ:世の中いろいろ
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ラトルとベルリンフィルを聴いて、一週間が経とうとしているが、いろいろと反芻したくなるコンサートだった。チケットの入手自体が相当難しそうな中で「第九」に行けたのは幸運だったと思うが、曲の特性もあって終わった直後はホールも自分のアタマの中もグワングワンと揺れ続けたような感じだ。

ラトルがステージから語り掛けた、最後のメッセージを聴いて、もうベルリンフィルとの来日は最後になるんだろうな、と思った。個人的にはロンドン交響楽団とのコンビにも、別の期待をしている。

ベルリンフィルとの来日では、王道の名曲が多かったけれど、シベリウスやエルガーなどを聴けたら面白いだろうなぁと思う。いずれにせよ、これほどの余力を残してベルリンフィルを去る指揮者は初めてだろう。

ラトルとベルリンフィルの活動を「評価」できるほどの経験も知識もないので偉そうなことは書けないが、少なくても相当の危機感を持っていることはたしかだろう。

ちょうどラトルが就任してまもなく、クラシックの世界では「新譜」の価値がどんどんと失われてきた。

そもそも、昔の曲の新譜が後から出てくるのも不思議だが、20世紀はそうだった。録音技術が発達して、「新しい録音」自体に一定の価値があった。そして欧州以外でもファンが広がり、大衆化が進んだ。そして、カラヤンに代表されるスターが、覇を競い、メディアも煽った。

その「新しい市場」の代表が日本だった。ただ、世界的にも市場は限界を迎えているだろう。

クラシック音楽を聴くにはいくつかのハードルがあって、まず単純に曲の時間が長い。チケットも高いが、大人数のオケをせいぜい千人単位のホールで演じるのから、この辺りは宿命なのだ。その上、楽器にも手を出しにくい。

いっぽうで、デジタル化によって音楽のデリバリーはどんどんカジュアル化している。あまたある過去の名演を選んで聴けばいいのだから、「新譜」の価値は相対的に減る。

オーケストラが生き残っていくには、原点にかえってコンサートの客を大切にしていくしかないのだ。これは他の音楽カテゴリーでも起きている。

ただ、クラシック音楽の優位点の一つは、一定の「教育ニーズ」があることだろう。子どものためのコンサートは、あちらこちらで行われているが、それを「e-ラーニング」にしたらどうなるか?ベルリンフィルのデジタルコンサートホール(DCH)の大きな狙いの一つはそこにあるように思っている。

子どもがクラシックに興味を持ったなら、DCHの会員になって好きに見せてやるのが、一番いいだろう。会費は高いように思えるが、ディスクをいろいろ買うよりもずっと経済的だし、映像もいっしょだ。新たな「クラシック・ファン」を世界で育てるのなら、これはたしかに有力な方法だ。そして「クラシック・ファン」は、そのまま「ベルリン・フィル」のファンになっていく。
ただし、この試みは相当の先行投資が求められる。ベルリンフィルにとっても、成果が出るまでは相当の辛抱がいるだろう。

そうしたことを承知の上で、あえて未踏峰へ挑戦しているのがベルリンフィルなのだ。彼らの生み出す音楽のインパクトは、そうした危機感と進取の気性がバックボーンにある。どの世界でも、それがトップランナーの条件だ。

だからこそ、聴き慣れたはずのベートーヴェンで、あれほどの熱狂と感動を呼び覚ますのだと、改めて思った。

なお、DCHについての感想はこちらとかこちらに。