柳家喬太郎は迷っているのだろうか。
(2016年7月18日)

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昨夜、落語会に行った。柳家喬太郎と柳家三三の二人会だった。

前半は三三から喬太郎、後半は逆になる。

三三は枕もそこそこに「締め込み」だが、夫婦のやり取りがスピーディで、言葉の端々までよく練られている。彼の得意な持ちネタだ。

続いて、喬太郎はウルトラマンあたりのネタを長々と話してから「擬宝珠」と言う流れ。これがまた結構変わった話で、彼以外に現在は演じる人はいないのではないだろうか。普通の解説本にはなく、東大落語研究会の「落語事典」にはある。江戸時代安永の頃に原形があるようだ。

中入りを挟んで、喬太郎は新作の「純情日記渋谷篇」で、三三は季節外れの「夢金」と言う流れでお開きだった。

この日もそうだが、喬太郎の舞台がどうも気になる。それは、あまりいい意味ではない。

元々が相当に達者な人だと思う。古典は何をやってもうまいし、圓朝の作品などはたまげたことがある。三鷹の井心亭で聴いた時などは本当に引き込まれた。

一方で、最近の落語会、ことにこうしたホールでは首を捻ることが多い。なぜか妙に力んでいるのか、この日も枕でのウルトラマン話が延々と続くのだが、どこかくどい。落語にしては広いホールだがよく響く杉並なので、時に喧しくなる。噺に入ってからもその傾向は同じだ。

そして、新作なのだけれど、残念なことにこれもまた力で押す感じだった。客席は沸いているが、先は読めるしオチも見える。

近年気になるのは、喬太郎が相当迷っているのでは?ということだ。僕はSWAの頃にもよく行ってたし、新作は好きだ。ただ喬太郎の「ハンバーグができるまで」や「純情日記」のように、若いカップルが登場する作品は聴いていて辛くなることがある。

こんなことは本人はとうに承知だと思うが、彼の新作は演劇的な面がある。だから登場人物のせりふ回しが「その人のように話す」ことになって、落語とは違う。これは、若い時なら「若い男」を演じても通じるし、「若い女」でもまあ笑いがとれる。

ところがこの位の歳になると、「若者の物真似」、しかもあまり上手でないものを見せられているような気分にな514xRKMxH6Lってしまう。

一方で、サラリーマンが出てくる新作はまったく気にならない。

ただし、彼については「青春ものの新作」はもう結構、と言うのが正直なところだ。それは、白鳥や昇太のような「古典になりうる作」とは異なる魅力のものだと思うからだ。

つまり、喬太郎の「青春もの」は、ある時代にある歳の噺家が演じるにはいいけれど、その「旬」は結構短いと感じる。それでも、そうはいかないところに彼の迷いがあるのだろうか。

ただ、迷うのはいいのだけれど、折角の名手なのに噺が雑になることが多い。以前三三との二人会でも似たところがあった。スゥーッと心地よく進める三三に対して、やたらに煩い「初天神」を聴かされた。今回も、しつこさばかりが印象に残る。どこか、彼に対してコンプレックスでもあるのだろうか。

古典をやることが確定している会ならぜひ行きたいが、こんな感じが続くと喬太郎の高座については、当面二の足を踏んでしまう。ああ、ぜひみっちりと喬太郎の古典を聴きたいのだが、それはそれほどに大変なことなんだろうか。