(2011年4月14日)

カテゴリ:世の中いろいろ

自分のブログで政治批評をやるつもりはないのだけれども、今の首相を「人事部が査定したらどうなるか」というのは興味深い話ではある。
そう思ったのは首相が「話した」と報道され、その後撤回した「10年、20年住めない」という発言の件である。実は似たような話が震災後に多い。時系列でいうと。
その1.地震直後の3月16日に内閣特別顧問の笹森清氏に「ぼくはものすごく原子力に強いんだ」などと話したことを、笹森氏が記者団に話して記事に。
その2.4月11日に公明党の斉藤幹事長代行に「細野豪志氏を原発担当大臣に」と電話で話して、報道されてその後霧消。斉藤氏は首相の大学の後輩。
その3.昨日松本健一内閣参与に「避難区域は当面住めないだろう。10年なのか20年なのか」と話したことを松本氏が記者団に話して記事に。その後両名とも否定するも大騒ぎ。
共通点があって、「大事だけど迂闊に口にしてはならないこと」を「部外者」に話して、そこから漏れるというパターンである。
簡単にいうと、このようなリーダーは査定するとかなり低いポイントになる。というか、ダメなのではないか。もし、こんなリーダーが職場にいたら?と考えればすぐわかる。
① 公式な部下よりも同期や同窓あるいは社外の人に大切なことをいう
② しかもそういう話を聞いた人の口が軽く、部下の耳にも入ってくる
③ 「口の軽い人」を見抜けず、言われた人も「軽い言葉」だと思うのでまたしゃべる
真っ当な会社なら「管理職降格」になることは間違いないだろう。
「どのくらい暮らせないか」というシミュレーションはたしかに必要だと思うし、今でも専門的な検討はされているだろうし、するべきだろう。でも、それをトップが「ポロリ」ということか。
経営者が社外の人に「もうウチの会社はダメだ」と言って、それが漏れたら社員はどう思うだろうか。
というような話なのである。
書いてて哀しくなってきたが、官邸の方が原発よりもっと恐ろしいということなのだ。



(2011年4月7日)

カテゴリ:世の中いろいろ

震災直後の「自粛ムード×停電」という状況が少し落ち着いた頃から「○○の役割」というのが目につくようになった。
周囲でもメディアでも結構目にしたのは「音楽の役割」「スポーツの役割」などのフレーズだろうか。つまり、アートやエンタテインメント、スポーツなどついつい「不要不急」とされてしまいがちな業界の人々が自問を始めたようなのだ。
その結果、チャリティーイベントなども多く行われるようになって、それはいいことだと思っている。
ただ、この「役割」ってあまり考えすぎても仕方がないように思うのだ。
「こういう時だからこそ、音楽は人々を勇気づける役割がある」というのも、正直僕は疑っている。あの混乱の中で、音楽を聞く気にはなかなかならない。やはり音楽は、楽な気持で聞きたい。
美しい歌声が人々を癒したり、スーパープレーが勇気を与えるということはたしかにあるだろう。ただ、残念なことに被災の現実は何も解決しない。
「自分にとって何ができるか」と考えることも大切だけれど、「自分がいかに無力なのか」を自省することもまた大切なのではないか。そう思ったのは4月1日に青山学院で行われた、「東北関東大震災の被災地を覚えての祈祷会」に参列したときだった。
「自らの無力と向き合い祈る」ということこそ、実は自分にとって糧となるのではないか。そんなことを痛感した。「何ができるか」と考えてもがくよりも、「何もできない」ことから見つめ直すことに、意味があるのではないか。
だから、祈る。
今の日本人の殆どは「祈る」ことが生活の中に組み込まれていない。地震の惨状をメディアで知っても、教会や寺院に行こうとした人は少なかっただろう。「神に祈る」機会や方法がわからないままに、自責の念ばかり強まってしまうことは決して幸福ではない。
あの地震が「人知を超えた」ものだったのであれば、「祈り」こそがまた人々にとって必要なのではないかと、改めて思う。



ネットを見ていて「仁科亜希子」とか「こだまでしょうか」あるいは「ぽぽぽぽ~ん」という言葉のやり取りの意味がわからなかった。昨日になって、久々に民放を見たので「AC」のネタだということがようやくわかった。
なんだ、みんなテレビ見てたんだと思ったりもする。
新聞・テレビが系列化されている日本で、「マスコミ叩き」というのは雑誌のお家芸であった。最近では、ネット上で盛んになっていて、マスコミOBの中にはそれを生業のようにしている人もいる。
たしかにAERAの表紙とかコンビニで見たときは「ダメだろこういうの」と思ったけれど逆風は想像以上だったようだ。
今回の震災報道は、まあいろいろ突っ込まれても仕方ないところは多いけれど、興味深いのは「アンチ・マスコミ」の人々のネット上の論調である。
古い話で恐縮だが「アンチ巨人」というのを思い出してしまった。今は死語になってしまったが、「とにかく巨人の嫌いな野球好き」という人々で、20世紀にはそれなりに存在した。彼らの多くは「アンチ自民」でもあったので、そういう人と迂闊に飲んだりすると午後10時を過ぎるころから説教臭くなって、大変に困ったものである。

>> アンチ・マスコミとアンチ巨人の続きを読む



もちろん冷静な意見も多いとはいえ、「自粛」のムードが広がっている。単に「不謹慎」という精神論だけではなく、今回は「電力節減」という物理的な大義名分ができつつあるのでややこしい。
しかし、この節電という名分も怪しいものがある。東京ドームのナイターは6000世帯分の1日分の電力だという。「その程度で済むのか」と思った。
そもそも5万人くらい来るのだから、おそらく万単位の世帯が不在になる時間ができる。一箇所に人が集まる方が効率はいいのではないか?
そう、結局節電も精神論になりつつある。合理的に考えないで象徴的なイベントにしわ寄せがいく。プロ野球も両リーグにコミッショナー、そして選手会がそれなりに考えていたのに、文部科学省や政治家が入ってきてややこしくなった。
とにかく「エンタメ狩り」を止めた方がいい。日本、特に首都圏はサービス業の割合が高いし、エンタテインメント産業にかかわる人も多い。多額の義捐金を寄付できる有名なスポーツ選手やアーチストはごく一部だ。災害時に「不謹慎」で止められてしまうような仕事にかかわる人の裾野はかなり広い。外食だってそうだし、流通も同じだ。
実は「不要不急」の行動が、多くの人の仕事になっているのだ。
「人を楽しませる仕事」を支える無数の人々の仕事を奪ってしまうことは、本末転倒だ。日本では、そうしたエンタテインメントの仕事にかかわる人が増えた。それは日本がずっと平和だったからだ。
こんなことが続いたら、「喜怒哀楽」ではなく、「怒哀」だけの社会になる。それがいかに恐ろしいかは、誰だってわかるはずである。

■将来の電力供給も含めてリポート「震災後の生活と新たな機会」を書いた。こちらからお読みいただけます。



たしかに、スーパーに行くとモノがない。買いだめしている人が多いという。
でも、少なくても自宅近くの複数のスーパーを見れば「普通にメシを作る」ことは問題ない。米やミネラルウォーター、さらにパスタやレトルト、カップ麺などの「非常食」は消えたけれども、慌てる必要はないだろう。肉や魚、野菜などは十分にある。
水も500ccはコンビニでもあるし、実は自販機のミネラルウォータはどこも売り切れていない。米は回復した。牛乳や乳製品などは一時的に品薄だが、これは北関東からの物流の影響だろう。
ガソリンも、別にオイルショックじゃないんだから。
そもそも、ついこの間まで日本の悩みは「需要不足の供給過剰」だったのだ。何も焦ることはない。
と、アタマではわかるのだけれども、やはり不安だろうなと思う。高齢者の人が一人で来ては買い込んでいる姿を目にする。彼らを批判するのは簡単だろうが、少し想像すれば、同情的にもなる。
あれだけの揺れがあって、テレビでは大騒ぎ。店に行けば品薄。もちろん放射能が「○倍」と言えば、それだけでビビるだろう。
こういう時に「生のコミュニケーション」がないのはきつい。実際、商店街で買い物をすると安心する。市場の様子などを教えてもらえるから、「ああ、大丈夫だな」という気になるのだ。ひとり暮らしの高齢者がテレビをずっと見ていて、いきなりスーパーに行ったら、そりゃ焦るのではないだろうか。
生のコミュニケーション、と言っても同じような人だけと話していると、やはり不安は増幅する。妹の話を聞いても、子どもを持つ主婦どうしは、どうも不安が掛け算になっている。彼女の夫は米国人なのだが、どうやら日米をまたいで彼らのソサエティで飛び交っている情報も、原発がらみについてはかなり暴走しているようだ。ちょっと面白過ぎて書かないけれど。
一方で自分も出入りしている高校時代のオーケストラOBのSNSは、その手の専門家もいれば、現地で被災しつつ奮闘している医師もいて、僕にとっても安心できる空間になっている。
被災地も孤立してしまう一方で、都市の中にも、高齢者を中心に孤立している人がいる。それも、また社会の課題なのだ。「買占めをやめよう」というメッセージも、表現によっては不安を増幅するかもしれない。
心が安定している人が、行動や言動においても安定していることが、世の中全体の安定になるはずなのだ。
普通に暮らそう。もちろん、それが困難なことは承知しているが。