すっかりオンラインの顔合わせも当たり前になって、会議からセミナーから飲み会まで広がっているけど、大学の講義もほとんどがそうなっている。ただ教育を遠隔でおこなうというのは、放送大学を持ち出すまでもなく、ラジオやテレビなどでも昔からあって、紙の通信教育だってある。

つまり一か所に集まらないでも「別の方法で教えてみよう」という発想はいろいろあって、いろいろ工夫してきたのだ。そう考えると、今のオンラインは相当よくできている。ところが、大学の先生の間では結構大騒ぎになって、あちらこちらで不満を聞く。

僕も青山学院で3コマ持っているので、そういう人たちのネット上の集まりに参加して覗いてみたけど、空気感になじめそうもないので、やめてしまった。

なんでかな?と思うとなんか「被害者意識」のようなものが強いのだ。

「被害者意識」という言葉を聞いたのは、会社に入って配属されてすぐのことだ。とある先輩が「被害者意識の強い人と仕事するときは気をつけろ」と教えてくれたのだ。

実際に「被害者」かどうかはともかく、「被害者意識」だけが強い人がいるんだよ。そういう人はうまくいかないと人のせいにするし、自分は間違ってなくて「被害者」だと思うから、文句ばっかりで前進しない。一緒に働く後輩はたまったものじゃないわけだよ。

という話を聞いてすごく納得した。たしかにそういう人は自滅してしまう。だから競争の激しいビジネスの世界では、被害者意識の強い人は淘汰されるのだ。 >> オンライン講義の壁は、先生の「被害者意識」だと思う。の続きを読む



相当気の早い話をすると、今年の新語・流行語大賞は「コロナ部門」と「非コロナ部門」を分けたほうがいいんじゃないかというくらい、いろんな言葉が飛び交っている。その多くは、実は行動の奨励や制限につながるもので、これが何に似ているかというともちろん戦時下だ。

これは広告研究でも重要な分野で、日本に限っても結構いろんな本が出ている。ただ、その頃と違うのは、国民が「ツッコミ」を入れられることだ。そう考えると、適度にツッコまれるというのも大切で、「三密」とかなんか有名タレントを連想して、それに本人が呼応してきちんと普及していったと思うのだ。

そう考えると、「新しい生活様式」というのが、もうタイトルも内容もツッコめないような感じで、久しぶりに「残念な感じ」だった。

いきなり「生活様式」というのも大げさで、なんで「生活習慣」と言わなかったんだろう。そうすると「生活習慣病」と似てませんか?とか誰かが言ったのかもしれないけど。

まあ見ていて、多くのものは「そうだろうな」と思うけど、時折妙なのがある。中でも一番気になったのはこれ。

「料理に集中、おしゃべりは控えめに」

いや、こどもの給食じゃないんだから。感染症予防からいえば「間違ってない」けど、「料理に集中」って、どうしちゃったんだろ。ああ、これは「変な校則」に近いんじゃないか。 >> 「新しい生活様式」が「変な校則」に見えてしまった。の続きを読む



人から指図されるのはあまり好きではないし、空気を読んで「自粛」したような経験はなかったんだけど、さすがに今回は自分の行動を制限して、1ヶ月くらい自宅の徒歩圏で暮らしている。

考えてみると2月末に「大規模イベント中止」になって、週1くらいでどこかの舞台に行っていたから、寂しかったし心配になる。外での食事は少人数では続けていたけど、3月末の都知事の記者会見で、さすがにやめた。

仕事はオンラインで続けていたけど、私生活の不満はどうなったかというと、それなりに適応している自分に気づく。落語は生配信があるし、ベルリンやウィーンのコンテンツも見られるし、近所のテイクアウトも充実して、ジムに行かなくても早朝ジョギングも気持ちいいし、zoomで飲んでも十分楽しい。

そうやって、不自由なはずの現実とどうにか折り合いをつけている自分に気づき、「ああ、これは“合理化”ってやつなんだ」と改めて思った。人は思うようにいかないときに、自分を納得させる「防衛機制」という心の仕組みがあると言われるけど、それがいま発動してるのか。

チケットが払い戻され、カードの支払いも少なく「なんかいいんじゃないか」と思った時点で、「ああ、こうなると舞台や外食の仕事をしている人はますます大変だ」と気持ちを改める。ただ、改めたところでいまできることは少ないんだけど。

で、ふと思ったんだけど、もしかしたらいまの日本で多くの人が「過剰適応」になってるのかもしれないんじゃないか。 >> 自粛への「過剰適応」で疲れてないかな?の続きを読む



しかし、欧米のように都市封鎖が起きると、文化やスポーツは全くなくなり、クルマなどの工業生産も止まり、食べて生きるための最低限の活動だけになっていく。会うのは家族か周辺の人々のみで、宗教にすがる。ふと思ったけど、これって考えてみれば「中世」なんだろう。

お酒を飲んで騒ぐことも「笑い」もなく、なんか『薔薇の名前』を思い出す。ITがあるとはいえ、まさか中世を体感するとは思わなかった。

そう考えると、観光や外食などいま大きな影響を受けている業界は、近代以降に盛んになったものだ。

そうなると、欲求も変化するのだろう。そこでふと思い出したのがマズローの、あの欲求段階説だ。用語はマズローの『人間性の心理学』(産業能率大学出版部)に準じてる。

気づくのは、とにかく世界的のどこでも、一番基本の「生きること」に精一杯ということだ。もちろん、安全も欠かせない。

そして、誰もが人との絆を確認する。会社から在宅になり自分の帰属先も見直すことになり、愛を求める。

という感じで下からたどった時、ふと気になるのは、承認欲求だ。もともとは、「自己に対する高い評価、自己尊敬、あるいは自尊心、他者からの承認などに対する欲求・願望」と書かれている。ここで想定されているのは、仕事などを通じて社会から認められることだが、これがネットの普及で相当手軽になってきた。

SNSで「映える」写真をアップしてハートが染まったり、みんなにリツイートされる「うまいこと」を言えば、たしかに承認欲求は満たされる。そんなわけで、知らぬ間に承認欲求は肥大化したり、時にはこじらすようになっていた。

しかし、SNS上の写真の両雄である「旅行」と「外食」は封印されてしまった。エンタテインメントも滞るから、政策に文句言うくらいしか大喜利のネタも乏しい。

そこで、みんな思うんじゃないか。「なんだ、承認されなくても別に生きていけるじゃないか」と。

もちろん、いつかはまた世界も戻るかもしれない。けれど、まったく同じになるのだろうか。このような中世的な生活にも何かの価値を見出していく人も増えるんじゃないだろうか。既に欧米では農業生産に影響が出ているから、今年の後半は「食べること」自体が大変になるかもしれない。
そして、続いて来たグローバル化に「騙された」と感じる人もたくさん出て来るだろう。

マズローが、欲求を論じたのは20世紀中葉のことだ。しかし、改めて考えてみると承認欲求の普遍性はどのくらいのものなのか。生きていくうえで本当に大切なこと、満たすべき欲求について現代の、特に先進国の人は何か勘違いしていたのかもしれない。

ちなみに「自己実現欲求」というのは、原著をちゃんと読めばごく稀に見られるものだということがわかる。つまり「自己実現を目指しましょう!」と安易に言う人のことは信じない方がいいと思うんだけど、そうやって足元を固めずにフワフワと「上」を目指してきた人間に対して、価値観の見直しを迫っているように感じるのだ。

コロナ禍のあとの世界は、大きく変わるだろう。そして、そこでは「中世」がキーワードになると思ってる。

 



予定がどんどん空いている。と言っても、仕事はミーティングがオンラインになったくらいで変化なく、コンサートや芝居が休演になっているので、時間が空くのだ。まあ、馴染の店に順繰りに顔を出して食事したりしている。

この公演中止は、関わっている人のことを思うといたたまれないんだけど、賛否を言えるかというと、感染症の知識がないだけに難しい。確率的に考えれば、規模が大きい方がよくないことくらいわかるけど、ライブハウスと芝居では接触や観客の発声とか全く異なる。

クラシックコンサートなら咳をするのも憚られる。歌舞伎だったら「音羽屋!」みたいな「大向こう自粛」とかしたら?下手な落語家なら笑えないからやってもいいけど名人はダメでしょ、などと話しているうちにあらかたなくなってしまった。
そんな中で野田秀樹氏が「意見書」を出した。読んだ人も多いと思うけれど、僕は「間違ってないけど、なんか違和感があると思った。とくにこの辺り。

(引用)演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません。ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは「演劇の死」を意味しかねません。(引用ここまで)

まあ、そうだと思う。スポーツを下に見てると思う人もいるかもしれないけど、まあ「自分が一番」と思ってなけりゃこういう仕事はできないし、まあいいか。でも、やはり何かが引っかかっていた。

で、昨日3月13日に行く予定だった、柳家三三の落語独演会が中止になってしまった。そして、彼のホームページにはこんなメッセージがあった。

(引用)3月13日の「月例 三三独演」はコロナのせいで、開催断念、中止いたします。

やるかやめるか皆んなですごく悩みました。大勢が集まることで感染リスクが高まる催しを行う決断が僕にはできませんでした。

ごめんなさい。

でも指をくわえてやめるだけでなく、慣れないことだけど同日同時刻に落語をやって、YouTubeでご覧いただくことにしました。

しかもどなたでも視聴可能。だってぼくも落語をしゃべることに飢えてますから。

もろもろ詳細はこの後あらためてご案内させていただきます

この形がベストとは思いません。でも今できる精一杯です。1日も早く会場で会える日が来ますように!令和2年3月5日 柳家三三(引用ここまで)

そういうことか。「演劇の死」と観念を振り回すのは、さほど難しいことではない。でも、三三の言葉には観客への想いと、落語を愛する気持ちが溢れていて、しかもYouTubeで誰にも見られる「会」にする!

生の落語と配信は、同じではない。そんなの誰にでもわかる。でも三三は考え抜いて「代替案」を実行する。2つの文章のどこが違うのか?

それは一言でいえば当事者意識だろう。批判も意見も誰でも言えるけど、それでウィルスはなくならない。でも、すべてに開放された三三の芸を見れば、きっとストレスは低減される。だったらいわゆる「免疫力」が上がるかもしれないくらいの期待もあって、それだけでも三三は誰かを幸せにするだろうな。
この2人の言葉を比べた時、「生きた言葉」の意味が初めて分かった気がする。