都市の孤立と買いだめと流言。
(2011年3月16日)

カテゴリ:世の中いろいろ

たしかに、スーパーに行くとモノがない。買いだめしている人が多いという。
でも、少なくても自宅近くの複数のスーパーを見れば「普通にメシを作る」ことは問題ない。米やミネラルウォーター、さらにパスタやレトルト、カップ麺などの「非常食」は消えたけれども、慌てる必要はないだろう。肉や魚、野菜などは十分にある。
水も500ccはコンビニでもあるし、実は自販機のミネラルウォータはどこも売り切れていない。米は回復した。牛乳や乳製品などは一時的に品薄だが、これは北関東からの物流の影響だろう。
ガソリンも、別にオイルショックじゃないんだから。
そもそも、ついこの間まで日本の悩みは「需要不足の供給過剰」だったのだ。何も焦ることはない。
と、アタマではわかるのだけれども、やはり不安だろうなと思う。高齢者の人が一人で来ては買い込んでいる姿を目にする。彼らを批判するのは簡単だろうが、少し想像すれば、同情的にもなる。
あれだけの揺れがあって、テレビでは大騒ぎ。店に行けば品薄。もちろん放射能が「○倍」と言えば、それだけでビビるだろう。
こういう時に「生のコミュニケーション」がないのはきつい。実際、商店街で買い物をすると安心する。市場の様子などを教えてもらえるから、「ああ、大丈夫だな」という気になるのだ。ひとり暮らしの高齢者がテレビをずっと見ていて、いきなりスーパーに行ったら、そりゃ焦るのではないだろうか。
生のコミュニケーション、と言っても同じような人だけと話していると、やはり不安は増幅する。妹の話を聞いても、子どもを持つ主婦どうしは、どうも不安が掛け算になっている。彼女の夫は米国人なのだが、どうやら日米をまたいで彼らのソサエティで飛び交っている情報も、原発がらみについてはかなり暴走しているようだ。ちょっと面白過ぎて書かないけれど。
一方で自分も出入りしている高校時代のオーケストラOBのSNSは、その手の専門家もいれば、現地で被災しつつ奮闘している医師もいて、僕にとっても安心できる空間になっている。
被災地も孤立してしまう一方で、都市の中にも、高齢者を中心に孤立している人がいる。それも、また社会の課題なのだ。「買占めをやめよう」というメッセージも、表現によっては不安を増幅するかもしれない。
心が安定している人が、行動や言動においても安定していることが、世の中全体の安定になるはずなのだ。
普通に暮らそう。もちろん、それが困難なことは承知しているが。