弱者を大切にするのは合理的だと思う。
(2016年7月28日)

カテゴリ:世の中いろいろ

それにしても「なぜ弱者を大切にするべきか」という理由をわかりやすく説明することは難しい。少なくても、「優しくしましょう」という情緒的な説得だけでは限界がある。

ただ、「弱者の視点で考える」ということは、相当に合理的だと思うので、ちょっと書き留めておきたい。

会社員時代に新人教育を3年間ほど担当したことがあった。その時にアタマの中でこういうコンセプトを持っていた。

「新人は会社の中で最も弱者なのだから、最大の資源を投入するべき」という考え方だ。

これは、実際にはほとんど口にしなかった。説明し始めると結構難しいのだけれど、学生時代にロールズなどの社会正義論を学んだこともあったので、自分なりに前からやってみたかったのだ。

結論的にいうと、この発想は正しかった。

何かの講義で、新人が「わかりにくい」というのは、よく研究すると話し手に問題がある。新人は知識面では最弱者だが、彼らに分かりやすく話せる人は外にいってもプレゼンテーションがうまい。

また、配属後に新人が行き詰ったりするときも、彼らが最弱者であると仮定すると、その組織の問題がよく見える。いろいろとうまくいってない組織は、いきおい新人にしわ寄せが行く。

つまり、弱者を基準に環境を最適化することは、全体にとっても最適化をしていくことになるのだ。

そして、人は何らかの点において皆が弱者だと思う。どんな優れた人も、必ず一つくらいは「何かに弱い」のではないかな?「暑さに弱い」とか、「酒に弱い」とか、いろいろある。

そして、そこに着目すると新たな機会もある。

「暑さを我慢しろ」だったら、クーラーは発明されない。そして、酒に弱い人のための低アルコールや、ノンアルコールは大きな市場になった。クルマの安全装備も、相対的な弱者を守るためにいろいろと考案された。

つまり、いろいろなビジネス機会を観察すると、「弱者の視点」で開発されたものが市場を拡大し、社会の進歩に貢献してきた。

そもそも、人間は野生動物に比べれば遥かに弱者だ。そして、誕生からしばらくの間の生存能力は低い。そうした弱者を生かすために努力をしてきたのだ。

弱者を大切に、ということは精神論だけで語ってしまうと、妙な理屈の反撃にあう可能性がある。だからこそ、合理的な視点で論じた方がいいと思うのだ。