今度の台風でも多くの市町村で、避難指示や避難勧告が出たようだ。13時過ぎのニュースだと「指示」が5万人強で、「勧告」は150万人余らしい。

「勧告」よりも、「指示」の方がより強く切迫している状況で発令されて、それほどの事態になったエリアも相当あったようだ。

つまり「指示」>「勧告」となるんだけど、これって結構逆に捉えている人が多いという。最近はよく出されるので、メディアでも話題になっていた。

でも、どうして勧告の方が“強い”ニュアンスを持つんだろう?

と考えると、これはいわゆる「言葉のインフレ」の一つの例と捉えると分かりやすい気がする。

そもそも、「指示」という言葉が、子ども頃からしょっちゅう聞かされている。

一番聞くのは、学校だろう。「先生の指示に従いなさい」という感じだ。で、その指示もロクに守られるとは限らないし、言う方も「どうせ全部は従わないだろ」くらいで、指示を出している。

その後も、上司の指示や得意先の指示など、まあ人はあらゆる指示に振り回されつつ、それもまたどこか適当。でも、どうにか世の中は回っている。 >> 「指示」>「勧告」が誤解されやすい理由。の続きを読む



新潟県加茂市の市長が「自転車は危ないから乗らないで」と呼びかける文書を配って、何かと議論になっているようだ。どうも、賛同する意見はあまりないようで、まあ、そりゃそうだと思う。

自転車に乗れない街づくりしておいて「危ないから乗るな」では、批判されて当然だだろうし、「代わりに市バスを使ってね」では突っ込まれても仕方ない。自動車道の建設には力を入れても、自転車は置き去りだったのだろう。ただ、これは日本全国で似たような環境になっていることだと思う。

で、ふと思い立って地図で加茂市の位置を確認して、「アッ」と思った。新潟内陸で三条の隣りになる。調べて確認すると「新潟三区」だったのだ。

新潟三区、というのは一定以上の年齢の人ならば記憶にあるのではないだろうか。ここは衆議院の旧中選挙区時代における、田中角栄の地盤なのだ。

角栄の政治には当然のように賛否があるけれど、雪国の貧農の家に生まれた角栄が、新潟の発展に尽力したことはよく知られている。そして、その手法は道路建設に代表される公共事業の誘致だった。そして、批判者からは土建政治と揶揄された。 >> 加茂市って「新潟三区」だったんだ。の続きを読む



全盲の女子生徒が、街で何者かに足を蹴られるという事件があった。また、盲導犬が何者かに刺されるという事件があった。

「弱者への加害」という意味で、相当の憤りを感じるけれど、その背景というか、加害者の心理が気になる。彼らは、普通の人では考えられないほど異常なのか。

それとも、誰もがそのような心理に陥る罠があるのか。

よく考えてみると、実は後者なのではないかとも思う。犯人像はわからないので、あくまでも自らを省みての推察だけど。

僕は視覚障害者に対して、イラッとしたことはない。ただし、よく考えてみると、常に「弱者」に対して優しい気持ちを持っているかというと、必ずしもそうとは言えない。

電車で高齢者がいれば、まず席を譲る。ただ、迷うこともある。夜の8時頃に仕事を終えた人で混んでいる電車に、酔った高齢者のグループが乗ってきた。風貌を見れば、席を譲ってもいいような年齢だ。

ドアの近くで賑やかにしていることもあり、席を譲る人はいない。でも、彼らが席の前に来たらどうしただろうか。仕事を終えて疲れている人たちに対して、酔った高齢者は弱者なんだろうか。僕は早々に電車を降りたが、もし自分の前に来たら迷っただろう。 >> 弱者への加害者心理は、他人ごとなんだろうか。の続きを読む



入社2年目の頃だったか、先輩と飲んで築地の鮨屋に連れて行ってもらった。

ザワザワとして、普通に会社員がいるようなところだ。

僕は当時コピーライターで、結構遅い時間まで先輩と一緒に仕事をした後だった。

店に入ってほどなく、隣の席の妙な感じに気づいた。先輩が、僕と同じくらいの社員を説教している。しかも、一方的で相当にきつい。

言われている方は返す言葉もない。ボロボロになったボクサーを、足蹴にしているような陰湿な感じがあって、一体どんな会社なんだろうと思った。

すぐ近くの新聞社だった。今では殆ど見ないが、その頃は社名入り封筒を持っていることが結構多かったのですぐわかったのだ。

広告制作の現場も相当な徒弟制だったけれど、その説教ぶりはかなり印象深かった。学生時代、新聞業界にも関心はあったのだけれど、行かないでよかったなぁと感じたことを覚えている。

いま、朝日新聞が大揺れのようだが、僕はこの夜のことを思い出す。

この一カ月ほどの騒動については既にいろいろな人が論じている。僕が、見ていて気になるのは「どうして謝るのが下手なのか」ということだ。これが、問題をこじらせている。そして、そのことを考えた時、四半世紀前のことが頭をよぎる。 >> 新聞社はなぜ謝るのが下手なのか。の続きを読む



これは、「50代からの働き方」とかいうお題ではなく、最近感じる備忘録のようなもの。

自分で仕事を始めたのが40歳で、先般10年経った。考えるのは、次の10年だ。ところが、これがなかなかに悩ましい。ちょっと前に書いたけれど、「10年後はまだ50」と、「10年後はもう60」という差は結構大きい。

そもそも、50代というのは相当ややこしい年代なのだ。

ちょうど先般発表された、内閣府の「国民生活に関する世論調査」では、毎年「日常生活での悩みと不安」を聞いている。大体、2:1で「悩みや不安がある」人の方が多いのだけど、1990年頃は1:1だった。その後、どんどん増加している。

そして、今回もピークは50代だ。これは、遡れる範囲で数字を見られる1999年でも同じなので、世代の問題ではないと思う。

他の調査でも、50代というのは幸福感が薄かったりする。

社会的には、十二分に大人だ。50代以降で子ども扱いされたければ、政界入りするくらいだったけど、そこでも段々と若返っている。40代までは「何をすべきか」ということ書かれている本があって、定年後の人々へのアドバイス本もあるが、50代対象は少ない。

つまり「自分で考えろ」ということなんだろうけど、そうそう簡単ではない。

仕事においては、大体見通しがついてくる。ボードメンバーになるのはごく一部だ。そうなると、現在それなりのポジションにいたとしても、そろそろ「身の処し方」は考えるだろう。既にマイペースを決め込む人もいる。

とはいえ、そうそう引退できる感じでもない。漠とした不安はあるが、結局は「自分で考えろ」になる。 >> どうする? 50代の10年。の続きを読む