naoto_yamamoto:Blog / 広告って、なに?
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広告をめぐる今とこれからについて考えます。


北教組関連のニュースで思い出したのだけれど、小中学校の頃の先生の影響力って、どのくらいあるのだろう。ブランドについては「超長期記憶」というカテゴリーの研究があって、子どもの頃のブランドイメージがその後どう影響するかを調べた研究があって、一定の関連を認めていたはずだけど。
僕が思い出したのは小学校の頃の先生の「政治的プロパガンダ」である。都内の区立小学校だったけど、まず1~2年の担任は大変分かりやすい左派の若手女性教師だった。
ギターを持ってきて
♪しあわせはおいらの願い 仕事はとっても苦しいが♪
という「しあわせの歌」とかがお気に入りで、こういうのは音楽の時間ではない時に教えられた。インターナショナルも聴いたと思う。もしかしたら道徳やホームルームの時間だったのかもしれない。
まあこの手の先生は珍しくなく、妹の担任の持論は「皇居の下に地下鉄を通せ」だったという意図不明なものだったりしていた。
しかし、今にして思うと5~6年のベテランの女性教師は、かなりすごかった。巨大で、かつ国政に強い影響力をもつ某宗教団体の熱心な「学会員」だったのだ。
それは結構授業にも反映されていて、6年の時には当時の会長で今もなお影響力を持つ某氏の詩が、模造紙に書かれて黒板の上に貼られていた。
なお、児童全員がその暗唱をおこなっていたのは言うまでもない。それ以外にも、道徳のテキストにはその手の話があった気もする
ただ、今となっては全くと言っていい程覚えていないが。
なお、この先生は結構最近まで選挙の前になると僕の実家に来ていた、と親から聞いた。
まあ、今の学校でこんなことやったら大問題だろうけれど、特にそういうこともなかった。中学校以降にその手の記憶はない。いったい何だったのだ、あの小学校は。
  


マーケティングROIについての基本的な文献として、その名も「マーケティングROI」と言う本がある。(J.Dレンズゴールド/ダイヤモンド社/2003・日本語版2004)
この中で広告に関してこんな記述がある。(65ページ)
###(以下引用)
目先の販売増加を狙った大衆向け宣伝活動がある一方で、水準の高いブランド広告は、長期にわたって持続する顧客との感情面での結びつきとブランド選好をつくり出し、またその企業に関する株式市場の評価にまで影響する可能性がある。この種のブランド戦略に関する投資判断を、無理に標準のマーケティングROIの等式に当てはめようとすることは現実的ではない。個々の投資ごとに増分価値を見極めることは不可能だからだ。本書に紹介するマーケティングROIのプロセスを用いて、この種の投資を管理する目的のためには、これらの広告を一般管理費として考えるのがよい。そのうえで、ブランド広告をブランド・エクイティ(ブランド資産)の算出法を用いて管理できれば、その投資測定法はいっそう強力なものになる。
(引用ここまで/下線山本)
###
一読してわかるとおり、ブランド広告の効果をROIの視点では測りきれないと言っている。もちろん、これについては以下のような疑問も提示されるだろう。


>> ROI再考。の続きを読む

新幹線「のぞみ」でトラブルが続いている。床下から煙とか天井から異音とか。
ある記事によれば、N700系の初期故障が出る時期だという。故障した車両に乗りたくはないが、いきなり大トラブルよりはバグを修正してもらった方がマシなのかもしれない。
初期故障、という表現で思い出したのだが、社会人のキャリアでも「初期故障」はある。新卒3年目くらいまでの会社員が「こんなはずじゃなかった」状態に陥ることだ。決定的に壊れるのは本人も周囲も困るけれど、適度な初期故障はかえっていいのかな、と思うことがある。
程度の差はあるけれど、自分の仕事や会社のあり方についてアタマを悩ませて悶々とすると「会社と自分の関係」について自分の言葉で考えられるようになるのだ。
初期故障をちゃんと修理できれば、やがて巡航速度に乗る。そして初期故障の効果は、後輩を持つ頃に現れるのだ。同じような初期故障を起こす後輩に対して「会社っていうのはね」と自分の言葉で説明できる。
いまどき初期故障に無縁だった社員はむしろ単に盲目的だったりする人も多い。この手の社員が30歳くらいになると妙に若手に対して威圧的になる。
マネジメントから見れば、適度な初期故障を起こさせること。つまり入社間もない若手が「こんなのでいいんでしょうか」と言いやすい空気を作り、それに対してオープンに話しあえるのがいいのだと思う。
いまどき問題のない職場はない。でも一番の問題は、それを隠すような濁った空気なのだと思う。


「立ち位置」という言葉を聞いたのは、2001年の頃で社内の先輩が口にしていた。その方は現場の制作から本社に転じていて、まあなんというか悩んでいたような気がする。
「仕事の上での立ち位置が大事なんだ」というような話で、まあ意味は分かるのだけど「タチイチ」なんて聞いたことがなかった。今でも辞書では見ない。
ただし「立場」ではよくないようで、広告業界特有の言葉の先走りかと思っていた。そのうち若い人も言い始めて「直人さんの立ち位置は......」とか言う。
「立場」というのは主に言い訳に使われていて、管理職が「気持ちは分かるがオレの立場では......」というように拒絶の口実になっていた。
したがって部下は「あの上司は自分の立場ばっかり」という陰口を言う一方で、「部長の立場を超えて動いてくれた」とかいうのは賞賛だったりする。
このように「立場」をしっかりさせることは、ネガティブな面が強調されやすかったが「立ち位置」は、ポジティブに捉えられていた。そんな気がする。
「得意先でも上司の前でも立ち位置が変わらない先輩」などは、若手からは好意的に見られているようだ。
ただし、個人的にはこの「立ち位置」はあまり好きではなく、何となくギョーカイ特有の「口にすると心地よい」物言いに聞こえる。
組織がフラットになって、管理職をプレイングマネージャーとかいうようになってしまい、与えられた「立場」が流動化したことが原因の一つだと思う。その結果、上も下も「立ち位置探し」。みんな自分のポジショニング探しに夢中になっている
あと、広告代理店なんかでは相変わらず、やたらチーム人数が多いようだ。得意先に「何か最近の代理店さんって、ますます大人数で来るんですけれど」という話を事業主から聞くことが多い。リーマンショック以降だろうか。
結局自分の社内ポジショニングのために労力を使う。それって何なんだ。やっぱ「立ち位置」って胡散臭い。


今年は多くの大学生に会って、就活の相談を受けた。そろそろ佳境のようだが、気になったことをまとめてみた。

学生時代に「大したことをしていない」からといって怖がることはない。殆どの学生は大したことはしていない。小さいことでも「懸命にやったこと」を冷静に話せれれば十分だ。

業界への適性や才能があるかどうかで悩む必要はない。その業界や企業を「志望しよう」と思うこと自体がその人の才能。才能がない人はそもそも志望しようとすら思わない。

自分の大学のネームに不安を抱くな。抱いた時点でもう何歩も後退している。就職に強い学生は皆「根拠のない自信」を持っているだけだ。でも、時にはその思い込みがパワーになる。

「何かが足りない」と言われるのは当たり前。その足りない最後の1ピースを見つけるのが就活プロセス。あきらめないで最後まで探し続けた人は結果を出せるはず。

「何がしたいかわからなくなる」「自分のことがわからなくなった」それも当然。就活は自分という魔物との戦い。みんな、恐れながら戦っている。迷ったら今「してみたい」ことをぶつけるしかない。

どんな時代でも可能性は次世代にしかない。ガンバレ、就活生。


企業内のマーケティング担当者が、社内から厳しくROIを問われるようになって久しい。これは欧米でも同様らしく、MBAをとった学生は「チェックできる側」の財務系の仕事を希望して、マーケティング志望が減っているという。大学の先生に聞いた話である。
実際にマーケティング担当者から相談を受けることもある。この場合広告予算そのものに関わるので、代理店の人には話しにくい状況もあるわけで。
全般的な傾向として言うと、短期的販促については経験値も高まってきて、社内でも納得されるようになりつつある。一方ブランディングに関わるコミュニケーション費用は、それほどキッチリ説明できない。
この話を聞くと、人事採用のことを思い出す。人事は長期的な視点で採用するが、現場は即戦力を求める。しかし、即戦力は「今がピーク」の可能性もある。
「どうしてああいう採用なのか」と問われた経験は人事担当者は持っているだろう。しかし、あえてハンパな反論はしない。それはプロの判断でありあえて計測はしないからだ。
人材ROI、という発想もあったようだが定着はしていない。


>> ROIと問い詰める文化。の続きを読む

最近執筆などでPCの前にいることが多い。で、原稿に飽きるとtwitterを眺めて知り合いをポチポチフォローしていたら、始めたらしいということが広まってしまったようなので何かとりあえず書いてみた。
実は昨年7月からアカウントあるのだけど、何となく放置していたわけで。
いずれにせよ、まとまった話はこちらに書くと思いますれど。ちなみにユーザー名はnaoto_yam で、こちらです。


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日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族。どうして、こんな話がいまだにアチコチで飛び交うのだろう。
ヒトはもともと採集・狩猟で生きていたが、何らかの条件が整い農耕を始めて、定住した。そこに古代文明が始まったわけで、西洋でも東洋でも「農耕」が現在の文明の前提になる。(僕の参照本は「銃・病原菌・鉄」)
ただ、日本人が米作文化で、欧米が肉食というのは確かにそうだろう。教科書にも出てくる「三圃制」は牧畜と農業の一体化を志向している。
それに比べると日本の肉食の歴史は浅い。だからといって、何も日本が突出して「農耕民族」というのは変だ。(僕の参照本は「肉食の思想」)
そんなの欧米の農業生産の規模を見ればよくわかる。
じゃあ、どうして「日本人=農耕」「欧米人=狩猟」な話になったのか。仮説を考えてみた。
その1。江戸時代まで産業革命がなく、かつ肉食文化がなかったため、欧米と比較して「農耕中心の国」という自己イメージが定着した。たしかに士農工商で、「石高」のように米が経済の中心になっていた面はある。
その2。敗戦直後には日本の就業人口の50%以上は第一次産業だった。しかし、その後地方から都市への人口移動が起きたが、これも米軍占領後の急速な変化だったので、反面的に農村が日本人の原風景として共有された。政治も農業に手厚かった。
その3。経済のグローバル化が進む中、日本と西洋の経営を比較するうちに、「でも日本人は農耕民族だから」というエクスキューズが変化を好まない人にとっては便利に機能した。防衛機制の一種かもしれない。
こう考えてみると「日本人は農耕民族だから」というのは根拠がない一方、"ある種の人"には便利なフレーズだったということが分かる。


>> 日本人は農耕民族だから。の続きを読む

ちょっと前のネット広告が新聞広告を逆転したというニュースで、思い起こすことがあって、それは会社を辞めた理由についてである。
「公式の」理由はいろいろとあるけれど、わざわざ言わなかった「理由」もあって、その1つは僕がマスメディアのコミッション・ビジネスの将来性に懐疑的だったからだ。
その一方で、経営層は全然「ダイジョーブ」だと思っていた。
わざわざ人材開発を希望したのも、マス広告のコミッションに依存しないで「稼げる人材」を育てることが急務だと思ったからだ。
「こうすれば新しいビジネスができる」といろいろ考えたのだけれど、本気でやろうとしないので、1人でやってみることになった。まあ、経営というのもそんなもんだった。
まあ9年前のことである。今に比べれば業界はまだまだノンビリしていた。
困ったのは「まだまだマスは大丈夫」とのたまう役員などが「ポジティブ思考」だという好意的評価がされちゃうことだった。
「いやあ、あの人は前向きだから」と部下からも慕われ、上からも評価されたりする。
今になって思うのは「ポジティブ・シンキング」と「ノー・シンキング」は紙一重ということ。何にも考えていない人は前向きになれる。危機感の強い人は疎まれる。
普通に考えれば結論は簡単だった。だが、その「普通」が難しいのである。


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マーケティングや経営論には戦争の比喩が使われることも多い。
ただし、比喩というのは「ほどほどにする」というのが望ましい。一つの体系と、もう一つの体系が完全に一致するというのは、実際はないのである。
したがって、マーケティングが戦争でも恋愛でも、別に「盆踊り」でもいいかもしれない。
「マーケティングは盆踊りだ」
それで、幾つかの共通点を挙げれば、命題としては成立する。でも、それは決してアカデミックでも、まして実践的でもない。ただの大喜利だ。
さて、実際に「近代戦の目的」というのは何か。以前自衛隊の人に直接聞いたのだけれど「より広い領土の確保」だと言う。したがって戦闘行為自体は当然目的ではない。
これは、「領土=シェア」と考えれば、それなりの意味を持つように思える。特に日本のように人口の減少が起こっている市場は、「限られた陸地」と同じだ。当然競合からのシェア奪取が重要な目的となる。
どのような人を標的にするか、というのは戦略レベル。どのような手段でその領土をいただくか、というのが戦術レベル。空爆か歩兵戦か?のような比喩も分かりやすい。僕も使うことがある。
ただし、先にも書いたように比喩というのは、ほどほどにしないと「たとえ話の整合性」ばかりが気になってしまう。
実は「領土=シェア」にも落とし穴はある。


>> 戦争とマーケティング。の続きを読む
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