ありのままのブルックナー。スクロヴァチェフスキと読響の一夜
(2016年1月22日)

カテゴリ:見聞きした
タグ: ,

読売日本交響楽団 特別演奏会 ≪究極のブルックナー≫

指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ

 

2016年1月21日 19:00 東京芸術劇場 大ホール

ブルックナー/交響曲第8番 ハ短調

=========================================================================

ブルックナーのいい演奏は、上質のスープのようなものだと思っている。長いこと時間をかけて作られた、ブイヨンや白湯をベースにした滋味あふれるおいしさを連想させる。

そのスコアを見ればすぐにわかるが、音符の絶対数が多いわけではないし、指示記号も詳細ではない。

だからこそ、スープの作り方が大切になる。地味だけれど、これを大切にする料理人が一流と言われるように、卓越した指揮者は曲に通底する「出汁」を丁寧につくる。それはオーケストラの音を、丁寧に積み重ねて、濁らない響きをつくり出し、かつ楽器のバランスに細心の注意を払うことになる。

その根気を忘れて、調味料に頼ったり、ましてや香辛料を加えてはいけない。丁寧に灰汁をとって、澄んだスープをつくる。

そうやって創り上げられたブルックナーは、決して大仰ではなく、悲痛でもなく、まして扇動などもない。淡々とした音楽が、静かな昂揚をもたらしてくれる。そんな演奏会だった。

この演奏会は、「究極のブルックナー」と銘打たれていたけど、あえていうなら「ありのままのブルックナー」というかんじだ。安易に「深い精神性」や「深遠な響き」と評されつつ、単に楽譜を無視して、大雑把なアンサンブルの演奏とは全く異なる。

また、高齢であるというだけで、ありがたみを感じる人には、物足りないかもしれない。

スクロヴァチェフスキは、いい意味で「普通の指揮者」であり、だからこそブルックナーの音楽が、自然に沁みてくる。

オーケストラは、弦楽器、特に中低弦の厚みがしっかりしていて、集中力が途切れない。全曲を通じて、もっとも印象的だったのは3楽章で、息の長いメロディが大きなうねりになって、いつまでも終わってほしくない、と願ってしまう。

スクロヴァチェフスキは、この曲を大きく3部でとらえているのではないか。1楽章と2楽章をアタッカで演奏するが、それによって、3楽章が曲の中核であり結節点であることが浮き彫りにされる。そしてフィナーレを一気に快速に振ることで、より対比が明快になるという狙いなのではないだろうか。

なお、最後に指揮者がタクトを下す前に、一部で拍手が起き、しばらくして止まり、ややおいて再度拍手となった。もう少し待って欲しかったとは思うが、そのフライングを止めた無言の空気圧がすごかったことが、この夜の緊張感を象徴しているようにも思う。