新人には「星座」を教えない方がいいと思う理由
(2016年4月12日)

カテゴリ:キャリアのことも
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この時期になると、新入社員が現場に配属されている会社も結構あるだろう。歓迎会をやってトレーナーを決めて、毎年恒例の風景になる。

で、新人の育成については、昔から対照的な発想があって未だにそれが生きているように思うので、それについて書いておきたい。

1つは、古典的な徒弟制度の流れをくむ発想である。とにかくトレーナーと行動をともにする。寝食をともに、とまではいかないが飲食なども大切にする。ひたすら「背中を見て覚える」わけだから、効率がいいとは限らない。

やり方を教えるよりも「自分で考えろ」ということになるので、遠回りになることもある。

もう1つは対照的な合理主義である。仕事を可視化して、そのためのスキルを効率よく教えていく。私的な時間は切り離すし、外部からの知識の吸収にも熱心だ。

多くの新人にとってはストレスも少ないし、組織としてのリスクも少ないと言えるだろう。

ただし、そこに欠けているものも結構あるのではないかと思っている。

まあ、それぞれのいいところを組み合わせればいいのだろうが、あえて言えば僕の感覚に近いのは前者だ。

ただし、上下関係重視の服従型ではない。合理的な遠回り、つまり海に落として溺れなくらいにサポートしながら自分で考える習慣をつけた方がいいのではないだろうか。

これを話すときに、僕は「新人には星座を教えない」という言い方をしている。

東京などでは無理な話だが、旅先で「満天の星」というのを見た経験を思い出してほしい。プラネタリウムでもいいけれど、とにかく無数の星がきらめいている状態だ。

そして、新人は「星座」を知らないで、この空に向かっているような状態だと思う。では、星座を教えた方がいいのだろうか?

僕は、あえて教えない方がいいと思う。せっかくの星空を前に回答を教えるのではなく、まずは「自分なり」の星座を探してみる。悩んだり苦しんだ後で、適切なタイミングで「こんな風にすれば」と方法論を見せるくらいあいいと思う。

このタイミングは難しいが、きちんと新人を観察していれば十分に可能だ。

なぜ、そうした遠回りにこだわるのか?というと将来的に地力がつくかどうかは「自分で星座を探した経験」がモノをいうと思うからだ。

それはまた、「教える」と「学ぶ」ということの、主体の違いでもある

最初から合理的に進めていくと、自分で考える機会を失う。仕事の環境が変わった時にそうした人は無力なのだが、それがわかるのは40歳になってからということもある。つまり、新人の頃に「自分で考えたかどうか」は、結構後になって響くと思うのだ。

闇雲に苦労させることで「ブラック企業」的になっている職場もたしかにある。ただし、それを恐れるあまり、もっとも大事な「星座探し」ができてないことも多い。

会社時代にとある先輩と意見が一致して、「合理的な精神論」はたしかにあるはずだ、という話になった。

そして、新人が「誰もが思いつかなかった星座」を見つけることもある。新人の育成は、その組織の「度量」が問われる機会だとも思う。