災害の後、「頑張ろう」に乗れなくてもいいと思う。
(2016年4月18日)

カテゴリ:世の中いろいろ

土曜日の午後、右手の親指の傷を気にしながらテレビを見ていた。

木曜の夕食を作る時にスライサーで切ってしまい、痛みは薄らいだのだがムズムズとした違和感がある。

そして、テレビでは九州の被災地のようすを朝から報じている。いわゆる「本震」が想像以上の被害をもたらしている状況が次々に映し出されていた。

困窮もあれば、心理的不安もあり、もちろん肉体的痛みもあるだろう。しかし、画面の向こうで起きているすべての混沌を合わせても、自分の指先のごく僅かなムズムズした痛みの方に明らかなリアリティがある。

そのどうしようもない距離感のようなものが、妙な不安感を増幅させる。(大変だろうな)と思うほど、自分の指先が妙な主張をする。(痛みはここにしかない)と、自分の指が言っているように感じてくるのだ。

大災害が起きるたびに、僕はこの奇妙な距離感と向き合うことになる。

テレビを見ることを止めて、いつも寄附をしているNPO団体のウェブサイトから手続きをする。早急に動く体制をもっているので、即効性が強い。既に物資を届けたことも、今日のウェブサイトで確認できた。

できることといえば、そうした支援くらいしかない。しかし、奇妙な違和感はなかなか消えない。普通に仕事をして、予定をこなす。ピアニストは弾き、馬は走り、猫は殆ど寝る。そうした日常の中で、被災地のことはやはり気になる。そんな感情自体が苦労している人の足しになるわけではないことは十分わかっているのだけれど。

SNSを見ると、支援を呼びかける声もたくさん見られる。一方で、根拠のない情報をシェアしたり、政治的行動をしている人もいて、だんだんと避けるようになってしまった。

災害の報道に接することで、精神が不安定になる人がいるという。「頑張ろう」というリーダーシップをとれる人は貴重だが、立ちすくんでしまう人もいると思う。支援する原資があって応援しても、何か気持ちの中の違和感は残るのではないだろうか。

だから、戸惑っている人がいるなら「しばらくは何もしなくていいんですよ」と語りかけてもいいんじゃないか。

人の痛みはそうそうわからない。もちろん「ある程度の」想像はできるので、支援はする。しかし、大切なのは「被災者の気持ちを考えよう」ということだけではない。むしろ、想像力と自分の力の限界を知ることこそが必要なのかもしれない。

ただ「自分には大したことはできない」という謙虚さもまた、結局は被災者の役に立つのだと思うのだ。

土曜日に被災地を映すテレビの前で、ムズムズ痛んでた親指は「落ち着け、己の分を知ってできることをしろ」と自分に話していたように思う。

5月末に九州北部へ旅する予定がある。この旅を楽しみに待つことも、「できること」の1つだと思っている。