元祖サブカルチャーとしての新撰組~京極夏彦『ヒトごろし』【書評】
(2018年7月1日)

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ともかく、長い。というか、1000頁を超える小説ならいくらでもあるんだけど、それを一冊にしてしまうのだから、これは本ではなくオブジェを売っているようなものかもしれない。

読んでいて眠くなったら、そこに頭を載せたくなる。硬い枕が好きな人なら、十分行けるのではないだろうか。ただ、タイトル通りのお話なのでどんな夢を見るかは心配ではあるけれど。

さて、京極夏彦の書く新撰組はそのタイトル通り、殺気に満ちている。主人公は徹底して土方歳三だ。その発想は「あるだろうな」と思うんだけれど、彼は「人が殺したい」という動機だけで、武士になろうとし、仲間を糾合していく。

だから、新撰組のストーリーにある種の美しさや幻想を抱いている人にはお勧めしにくい。出て来る者たちは、やたらと「人外」、つまり人でなしだ。沖田総司などは土方以上のサイコパスで、土方の目には、その貧相な要望は「鼠のように狡猾」で、やがて「ドブネズミ」扱いだ。それなのに、沖田は猫でも犬でも人でも殺す。

芹沢鴨のひどさは、一段と強調され、山南の哀れさはさらに際立つ。

それにしても、新撰組は常に内部が活火山の底のように揺れていて、いわゆる「内ゲバ」の連続だ。本作では「滅びの美学」などという生易しいものではなく、そこには「醜い死」が積み重なるだけである。

思わず、ドストエフスキーの『悪霊』を思い起こしたが、考えてみると同じような時代の話だ。陰鬱なエネルギーが沸き続けた時代だったのだろう。

とはいっても、この京極作品はある種「新撰組コンテンツ」の流れを汲んでいると思う。というのも、新撰組というのは戦後のサブカルチャーとの相性がとてもいい。手塚治虫もそうだけど、ギャグマンガでもキャラクターになった。成長譚として描くこともできるが、男同士のクローズな世界に妄想を広げるパターンもある。

「忠臣蔵」が早々に歌舞伎の演目として確立したことで、ある種の様式美の世界に鋳造されたのとは対照的だ。三谷幸喜が取り上げるのも、ある意味当然なのだろう。

そして、新撰組の存在自体が当時の武家社会のサブカルチャー的側面がある。「武士的な集団」であろうとしながら、自己規定ができずに内部から崩壊していく男たち。ところが「誠」の“ロゴマーク”など、自己陶酔的な姿は当時の武士の世界観とは全く異なる。

そう考えてみると、この「ヒトごろし」のようなアプローチは、新撰組を描くには、ある意味ふさわしいように思えてくる。

というわけで、京極夏彦が書いたらどうなるかな~と思う歴史上の人物は結構多い。宮本武蔵や天草四郎など面白そうだけど、ロベスピエールとか凄そうだ。フランス革命もまた内ゲバの歴史だしね。