東海道新幹線で乗務員が英語のアナウンスを始めた。

東京オリンピックのマラソンが、北海道で開催されることになった。

コンビニエンスストアの24時間営業の見直しが話題になって、大学入試の民間英語試験の導入が延期になった。

一見、関係ないことのようだけれど、その後目にしたメディア上の反応、もう少し細かくいうと「ネット上の匿名の声」に共通点があったことが気になっている。まあ恣意的に拾われる、テレビの街頭インタビューも似たようなところはあるかな。

どこか、他人事として「嗤って」いる。「ほら、だから無理しなきゃいいんだよ」という感じで、なんか小賢しい感じだけど、安全地帯から言ってるだけだ。

それだけならいいんだけど、そうした声を拾い集めて「○○に賛否」とか見出しつけたトピックが、ネットの“ニュースメディア”には溢れているわけで、それが世の中の空気を作っていくんだろうなと思うとちょっと気になる。

なんか、現場で頑張っている人の視点がすっぽりと抜けている。

新幹線のアナウンスがたしかに拙いかもしれないけど、一人ひとりは懸命だと思う。オリンピックのコース変更で僕がまず思ったのは「準備してきた関係者は無念だろうな」ということだったけど、そういう切り口ってあまりなかった。

そもそも関心を持っていないのに、うまく行かなくなった頃「やっぱダメじゃん」というのは誰でも言える。 >> 2020年は「嗤う」空気に背を向けたい。の続きを読む



コーンフレークが一気に話題になった。

昨夜のM-1グランプリのミルクボーイのネタなんだけど、受けていたし、ああうまいなと思った。笑いの「つくり」としては、決して新しくない。ぺこぱのように、斬新なツッコミ方をするようなわけではないけど、やはりおかしい。

なんでかな?と思うと、この漫才の本当のボケ役は「コーンフレーク」なのだ。

誰もが知っている食べ物。しかし、コーンフレークには隙が多い。もともと、朝から米を炊くという稀に見る手間をかけた朝食の国でコーンフレークは頑張ってきた。でも、なんか大変そうだ。

やがて、朝食にご飯を炊く家庭は減って、パンが増えて、やがてコーンフレークに行くかと思うと、一気にグラノーラに、「一人飛ばしてパス」という感じじゃないのか。

その、ちょっとした隙を多くの日本人は知っている。だから「最後の食事」も「夜ご飯」も笑いになる。たしかに「五角形」もどこか怪しい。そして「パフェのかさ増し」というのも微妙な役どころだ。

「誰に感謝していいのか分からない」というのは、「腕組みをした虎」の伏線だけど、そもそも「お百姓さんに感謝」という、いまや言われないけど何となく知ってる共通知識を上手についている。
そうか、これを七面倒くさく書くと、コーンフレークに対する日本人のスキーマを利用して、そのインサイトを上手にいじったわけだ>> そうえいば「コーンフレーク」ってツッコミどころ多いよね。の続きを読む



最近大学で中国からの留学生とみっちり話す機会があるんだけど、ちょっと困ったことがある。

カタカナだ。

もちろん彼らは日本語をしっかり学んでいる。しかし、外来語の場合、元の発音とかけ離れていることも多く、かえって理解の妨げになったり、遠回りになることも多い。

tomatoがトマトで、pastaがパスタだったりするのは、「そういうもの」として覚えるし、smart phoneが「スマホ」でも、それはそれで1つの「日本語」ということでどうにかなる。「パソコン」もそう。

でも、「カスタマー・エクスペリエンス」とかになると、困る。experienceという英語を知っているのだが、それは「エクスペリエンス」という音で認識されてるわけではない。

そうなると、英語のexperienceはカタカナで「エクスペリエンス」であり、日本語は「経験」です、ということになるんだけど、何か伝えるのに手間がかかり、すごく不合理な気がする。

だから、こういう時は「顧客体験」と言って、英語を脇に書いてあげる方が話が早い。

ただ、「クラウド・コンピューティング」となると、該当する日本語もない上に、カタカナで「クラウド」というのは、cloudかcrowdか両方ともあるわけで、コンピューティングなら前者で、ファンディングなら後者になる。

もう最初から英語で書いてあげた方が、中国人には話が早いのだ。

カタカナというのは、おもに外来語表記にあてられるわけで、もちろん便利な面はある。ただ、そのカタカナ言葉というのは不完全なもので、そのまま発音しても通じないし、むしろ英語などを学ぶ際にマイナスになるよなあ、とは感じてる人も多いと思う。

ただ、これだけ色んな国の人とコミュニケーションすることが多くなり、日本語中心の環境で暮らす海外出身の人が増えると、もう一から見直した方がいいのかも。

カタカナのもたらす妙な作用は他にもあって、それは4年前に日本が頑張ったラグビーワルドカップの時に感じた。普段ラグビーを見ない人は、日本代表に海外出身の選手が多いことに驚いたり、時には違和感を感じたという人の声も聞いた。

ただ、日本のメディアで見た時と、英語の放送やサイトで見た時は相当印象が異なることに気づいた。アルファベットだけの表記だと、まあ出身国がどのあたりかは何となくわかるが、明らかに「違います」という感じはしない。

ところが、日本語だと「カタカナの選手」ということで、あまりにもわかりやすく記号化されちゃうのだ。

カタカナというのは、「内と外」を区別してしまう作用があるわけで、カタカナに罪はないけれど、何かモヤモヤすることがすごく増えてきた。というか、「なんか変だけど便利だし」という感じで使われてるとすれば、これは使う側の「未必の故意」のような気もして、やっぱりある種の罪ではないか。

できることとしては、まず英語で新しい言葉が入ってきたら、まずはメディアが英語で書いた方がいいだろう。少なくてもカナと併記するとか。そうなると、縦書きということ自体が問題になるんだろうな。

いま僕は新聞を電子版で読んでるので英語併記も読みやすいけど、、今後はビジネス書なども横書きにした方がいいんじゃないか?とかカタカナのことを考えると、これは日本人の思考の話にまで広がっていくように思う。

しかし、2種類の表音文字って、当たり前のように使っているけど、海外の人は学ぶの大変だろうなあ。しかも「ドラえもん」みたいな落とし穴もあるし。

 



明日から連休が始り、その間に即位と改元がある。で、気がつくとあちらこちらに「さようなら平成」とか「ありがとう平成」という言葉が溢れている。なんか変な気がするんだけど、何が変だかうまく言えない。

ああ、そうか。もうかなり前になるけれど、オリンピックの時に「感動をありがとう」が増殖し始めた頃の感覚に似ているのか。長野オリンピックの頃だと思うけれど、視聴者が「おめでとう」ではなく、「ありがとう」というメッセージを寄せるようになった。

選手としてみれば、そこで祝福ではなく感謝を受けたことになるんだけど、これは発話者つまり視聴者が、選手の物語を「自分の物語」に無意識のうちに変えちゃったんだと思う。

「おかげでチカラをもらいました」という発想は、謙虚なようでいてよく考えると自己中心的な感じもしないではない。

という理屈はその時の話で、ただ、今回の「ありがとう」はそれとも違うだろう。そして、「こんにちは令和」「ようこそ令和」「よろしく令和」などの言葉も飛び交っている。

あ、そうか。これって元号も擬人化されちゃったのか。というか「キャラ化」だ。

こういうのは、その多くが広告絡みのキャンペーンだったりするんだけど、まあ流通を中心にしていわゆる「年末年始」の手法だろう。干支みたいな扱いなのかもしれない。

まあ、何となく理解はできても個人的にはやっぱり変なんだけど、そんなこと言っても仕方ない。とにかく休みだ。元号が何になっても、好きなことするぞ。

で、一応自分だったら「平成」に対して何と言うんだろう?と考えてみた。「ありがとう」は違うんだけど、「お疲れさま」でもないし。

まあ、平成という時代に対していろいろ言う人はいるけど、自分的には結構楽しい30年だったし、ポジティブには捉えられるわけで、まあこんな感じかな。

「よくやった、平成!」

さあ、連休だ。皆さま、よい休暇を。



4月になると、入社式や入学式にまつわるニュースが報じられて、結構SNSなどでも話題になったりする。

今年は「あれ、見たことあるな」と思ったのがあって、それは「1986年と現在の入社式」という記事だ。これ、実は2010年の記事で一度話題になったのが、そのまま再度注目されたようだけど、ネタとしては結構前だ。また朝日新聞デジタルでも、入学式の黒スーツが取り上げらていた。

記事にも引用されていたけど、国際基督教大学の加藤恵津子・学生部長は同紙に「服装の統制は、言論や思想の統制と隣り合わせ。」と寄稿していたので、その流れなのだろう。

最近の服装を個性がなく画一的で無個性と捉えるのが、大人の流儀なのか発想なのか。でも、僕はその発想の方が画一的なんじゃないかと疑ってみたりする。

大学はもちろん、いまは職場でもカジュアルな服装が増えている。彼らにとって、入社式や入学式は、「とりあえずおさえておく」儀式だし、だったらそのまま就活で使うスーツを選ぶのも普通だろう。

先の学生部長は「服装の統制」というけど、その発想もまた見えない何かに統制されている気もする。

ただ、実際に日常の服装がどうなのかというと、たしかに「個性的」ではないかもしれない。 >> 「入社式とかの服装が画一的」、と嘆く発想が画一的?の続きを読む