食習慣は人さまざまだが、酒を飲むかどうかによる違いは相当大きい。僕は、自宅でも何らかの酒類を飲みながらの夕食は多いし、外食でも同じだ。まず「飲み物はいかがしましょうか」と訊ねられることに違和感はない。

だから、「居酒屋で水ばかり頼むのはあり?」とかいう記事を読むと、そりゃないだろうなと思ってしまう方だ。

ただ、忘年会というものが殆どなく、今年は一件もない。フリーだと、自分で声かけなきゃそんなものだろう。もともとそういう会は嫌いで、寒い中グジャグジャの繁華街歩くのとか嫌なんで、この時期は順調に引きこもっているのだ。

一方で家人にはそれなりの集まりがあるので、1人で馴染みの店に行ったりもするがそれにも飽きたので、「まあ飲まずにメシだけ」と考えると意外と選択肢が少ない。

ハンバーガーや、牛丼などのファーストフード以外には、蕎麦屋、ラーメン屋、ファミレスなど。定食は、居酒屋などが昼に出していることが多く、夜に見つけるのは難しい。

少しゆっくりしたいと思うとファミレスはたしかにいいんだけど、ご存じのように相当店を畳んでしまった。

カフェにはそういう店舗もあるけれど、カフェという業態自体が特定の地域に偏っている。

となると、改めて飲まない人の気持ちがわかるし、飲めるけど「メシだけゆっくり食べたい人」のニーズだってもっとあるだろう?とか思うのだ。

ことに都心部はその傾向が強くて、大学の講義の後に大戸屋で食べていたら満席だったけれど、殆どが一人客だった。たしかに、他にそういう店はないのである。 >> ここは東京なのに「夜に和定食」を食べるのが難しいとは。の続きを読む



「牛丼、3カ月食べ続けたら… 吉野家が研究結果を公表」という見出しが朝日新聞DIGITALに載っていた。吉野家HDがおこなった実験なんだけど、結果としては「健康リスク」は増えないということらしい。

気になったので同社のウェブサイトにあるプレスリリースを見てみたんだけど、これ、実に興味深くて、少なくても朝日の記事だと見出しは正確とは言えない。

実際に食べたのは「牛丼の具」なのだ。

リリースのタイトルも『吉野家「牛丼の具」の長期連続摂取に関する研究』とある。

つまり、この「具」を一日一食、12週間続けて食べてもらったというわけだ。

でも、これって、実験と結果のロジックを考えてもらうのにいい素材だと思う。高校生あたりに問題を出して考えてもらうと、ちょうどいいんじゃないだろうか。

「この実験から、『日常的に、牛丼を一日一食3か月食べても健康リスクは増加しない』と言えると思うか。理由とともに述べよ」 >> 「牛丼3カ月食べ続けたら」にツッコミを入れてみる。の続きを読む



ちょっと前に、ふとした拍子から「ベジタリアン」について検索してみたことがあった。そうしたら、「ピカソがベジタリアン」という話が出てくる。

え?と思ったのは、そもそもピカソのパワフルなイメージにベジタリアンというのがピンと来ないからだ。彼は、女性関係も派手だったし、いかにも「肉食系」だ。

また、以前見たドキュメンタリーで晩年のピカソを知る肉屋が語っていたのだが、その時に「牛の睾丸」が好物だったと話していた記憶がある。ああ、なるほどなと感じたのだ。その方がベジタリアンよりも、遥かにイメージ通りだし。

そっちで調べると、このようなブログ記事もある。たしかに、2011年のNHK-BSのようだ。多分、この時の記憶だろう。

そして、このネット上に出てくる「ピカソがベジタリアン」という話だがどうも怪しい。出典がなにもわからないし、そういう記事を辿っていくと「低速ジューサー」を売るための企画だったりする。

ベジタリアンになれば健康で賢くなれる、という煽りの中でいろんな人が「有名なベジタリアン」を探しているようだ。そして、「ピカソがベジタリアン」というのは、とある人のインタビューでの発言が元になっているらしい。

それは2009年の市川海老蔵のインタビューで、そこで彼はこう言ってるらしい。

報知新聞2009年1月6日のインタビューで、「ダ・ビンチとかピカソとか、尊敬する人にどうも菜食が多い」と言ってたようだ。(ウィキペディアより)で、彼もそうしていたらしい。(今は知らない) >> ピカソはベジタリアン、というネットの落とし穴。の続きを読む



最近はあまり聞かないな、と思っていた言葉に「生きにくい」とか「生きづらい」というのがあったけど、少し前にとある女優のインタビューで見た。

上野樹里なんだけど、「日本は生きづらい」という見出しで読んでみると、別に日本社会の問題を指摘してるわけではない。自分が有名になり過ぎていろいろ神経を使ったというだけの話だった。彼女は海外で映画出演しているので、そのように思ったんだろう。

で、これが一部でいろいろ言われているそうだけど、まあそのことじゃなくて、この「生きにくい」「生きづらい」ってどうして言われるようになったんだろうか。

感覚的には、いわゆる「格差」が広まったといわれるここ10年くらいではないかと思う。ただし、こればかりは個人差もある。性格や環境も影響するので、「2000年代初頭の日本」の問題なのか、あるいはそもそも人が生きていく上で付きまとうことなのか?ということが気になるのだ。

とりあえず、ここ最近の日本で起きていることだとすればなせだろうか?たとえば若年層が未来に希望が見出しにくいとか言うこともあるだろう。また、何か言葉を発するとすぐに叩かれて「空気読め」と言われるような「一億総姑社会」のようなことも背景にあるかもしれない。

一方で、自分自身を考えると「生きるのは大変だ」と思ったことはあっても、それは自分の問題だから自分でどうしようか?と考えてきた。生きづらい「社会」がそこにあるのではない。うまく生きていけない自分がいる、という認識だった。 >> 「生きにくい」とか「生きづらい」とかを疑う。の続きを読む



ハロウィンが去った。一部の報道では「ハロウィン騒動」と書いていて、もうそこにはハナから悪意を感じるわけなんだけど、なんかいろんなことが「クッキリ分かれた」イベントになってるな、と思う。

で、いろんな溝が見えてくるなあ、と思うのだ。

まず、「仮装する人と、仮装しない人」がクッキリ分かれる。これは年代の要素も多そうで、若い人が多いのはまあわかる。あと、子どもたちに便乗するように親も参加するんだろうか。結構職場で盛り上がっている人もいるようだ。

結局、どういう仲間に帰属しているか?ということが大事なんだろう。僕のように1人で仕事して、休日も好きなことしてマイペースなので「仮装するぞ」という空気にすら触れていないのだ。

あと、地域によってもクッキリ分かれる。とにかく繁華街に集まる。その象徴が渋谷ということなんだろうけど、日本各地ではどうなんだろう。結構極端な都市型のイベントになっている。

そして、一番気になったのが「ゴミを捨てる人と拾う人」だ。どんな人が捨てて、どんな人が拾うのか。

拾う人は何となくわかる。翌日のSNSで知り合いが実際に活動しているのを幾つか観た。普段から、いろんな社会活動に取り組んでいる人が多い。じゃあ、捨てる人ってどんな人なんだろうか。
日本の街は概してきれいだと思うし、煙草のポイ捨ても条例の効果か減っているように感じる。ずさんな人もいるとはいえ、結構七面倒くさい分別もそれなりに機能している国で、ハロウィンの日、特に渋谷がゴミだらけになる。捨てるのは、どんな人なのか?
翌朝に取材した記事を見ると「思ったよりゴミが少ない」とも書かれてる。ただ、それはハロウィンの日に小中学生が結構拾っていたからともいう。 >> ハロウィンで「捨てる人」と「拾う人」の深い溝。の続きを読む