全盲の女子生徒が、街で何者かに足を蹴られるという事件があった。また、盲導犬が何者かに刺されるという事件があった。

「弱者への加害」という意味で、相当の憤りを感じるけれど、その背景というか、加害者の心理が気になる。彼らは、普通の人では考えられないほど異常なのか。

それとも、誰もがそのような心理に陥る罠があるのか。

よく考えてみると、実は後者なのではないかとも思う。犯人像はわからないので、あくまでも自らを省みての推察だけど。

僕は視覚障害者に対して、イラッとしたことはない。ただし、よく考えてみると、常に「弱者」に対して優しい気持ちを持っているかというと、必ずしもそうとは言えない。

電車で高齢者がいれば、まず席を譲る。ただ、迷うこともある。夜の8時頃に仕事を終えた人で混んでいる電車に、酔った高齢者のグループが乗ってきた。風貌を見れば、席を譲ってもいいような年齢だ。

ドアの近くで賑やかにしていることもあり、席を譲る人はいない。でも、彼らが席の前に来たらどうしただろうか。仕事を終えて疲れている人たちに対して、酔った高齢者は弱者なんだろうか。僕は早々に電車を降りたが、もし自分の前に来たら迷っただろう。 >> 弱者への加害者心理は、他人ごとなんだろうか。の続きを読む



入社2年目の頃だったか、先輩と飲んで築地の鮨屋に連れて行ってもらった。

ザワザワとして、普通に会社員がいるようなところだ。

僕は当時コピーライターで、結構遅い時間まで先輩と一緒に仕事をした後だった。

店に入ってほどなく、隣の席の妙な感じに気づいた。先輩が、僕と同じくらいの社員を説教している。しかも、一方的で相当にきつい。

言われている方は返す言葉もない。ボロボロになったボクサーを、足蹴にしているような陰湿な感じがあって、一体どんな会社なんだろうと思った。

すぐ近くの新聞社だった。今では殆ど見ないが、その頃は社名入り封筒を持っていることが結構多かったのですぐわかったのだ。

広告制作の現場も相当な徒弟制だったけれど、その説教ぶりはかなり印象深かった。学生時代、新聞業界にも関心はあったのだけれど、行かないでよかったなぁと感じたことを覚えている。

いま、朝日新聞が大揺れのようだが、僕はこの夜のことを思い出す。

この一カ月ほどの騒動については既にいろいろな人が論じている。僕が、見ていて気になるのは「どうして謝るのが下手なのか」ということだ。これが、問題をこじらせている。そして、そのことを考えた時、四半世紀前のことが頭をよぎる。 >> 新聞社はなぜ謝るのが下手なのか。の続きを読む



これは、「50代からの働き方」とかいうお題ではなく、最近感じる備忘録のようなもの。

自分で仕事を始めたのが40歳で、先般10年経った。考えるのは、次の10年だ。ところが、これがなかなかに悩ましい。ちょっと前に書いたけれど、「10年後はまだ50」と、「10年後はもう60」という差は結構大きい。

そもそも、50代というのは相当ややこしい年代なのだ。

ちょうど先般発表された、内閣府の「国民生活に関する世論調査」では、毎年「日常生活での悩みと不安」を聞いている。大体、2:1で「悩みや不安がある」人の方が多いのだけど、1990年頃は1:1だった。その後、どんどん増加している。

そして、今回もピークは50代だ。これは、遡れる範囲で数字を見られる1999年でも同じなので、世代の問題ではないと思う。

他の調査でも、50代というのは幸福感が薄かったりする。

社会的には、十二分に大人だ。50代以降で子ども扱いされたければ、政界入りするくらいだったけど、そこでも段々と若返っている。40代までは「何をすべきか」ということ書かれている本があって、定年後の人々へのアドバイス本もあるが、50代対象は少ない。

つまり「自分で考えろ」ということなんだろうけど、そうそう簡単ではない。

仕事においては、大体見通しがついてくる。ボードメンバーになるのはごく一部だ。そうなると、現在それなりのポジションにいたとしても、そろそろ「身の処し方」は考えるだろう。既にマイペースを決め込む人もいる。

とはいえ、そうそう引退できる感じでもない。漠とした不安はあるが、結局は「自分で考えろ」になる。 >> どうする? 50代の10年。の続きを読む



サッカーが厳しいことになっている。2試合を終えた日本代表だが、勝敗以上になんか「?」と思っている人も多いだろう。

あまり技術的なことはわからないんだけど、僕が気になっているのは、選手たちがよく口にする「自分たちのサッカー」という言葉だ。

初戦を落とした後に、長谷部が「自分たちのサッカーが表現できなかった」と言った時、ちょっと、違和感を感じた。フィギュアスケートの選手みたいだな、と。でも、他の選手も「自分たちのサッカー」という。ギリシャ戦の後にザッケローニ監督も「われわれのサッカーを部分的にはできたと思う」と言っているようだ。

一方で、この言葉に内田が違和感を持っていたという記事もあった。

で、僕が感じたのは、もしかしたら、日本チームは「自信」と「自我」をどこかで混同しているのかな?ということだ。

いや、いきなり理屈っぽくて申し訳ない。

スポーツのような勝負ごとにおいて「自信」を持たせることは必須だ。いまの日本代表においても、その点は成功しているのだろう。ただし、「自我」が肥大してしまうと問題が起きる。自分らしさにこだわったことで、負けることもある。

ビジネスでもそうだ。「自社らしさ」に拘泥して、競争に負ける企業はたくさんある。自信が高じて、自我が増長したパターンだ。

一方で自信を失った時に、自我が大切なこともある。ある人が、そりの合わない上司とぶつかって仕事を干されたとする。そういう時こそ「自分らしく生きればいいじゃないか」と、自我が支えるだろう。試験に落ちるとか、異性にふられるとか、同じこだ。とある勝負に負けても、人の一生はそれだけでは計れない。もっとも、自我を捨てても勝ちを取る人もいるだろう。

いずれにせよ1人の人間が、ずっと自信を持ち続けることは難しい。くじけた時こそ「自分らしさ」が支えになる。ただし、ワールドカップのように勝負自体が目的の世界で重要なことは、あくまでも「自信」を高い水準で維持することだろう。それが、どこかで自分らしさへのこだわりに転じて、その肥大化した自我が、そもそもの自信を押しつぶそうとしている。

それが、今の日本代表の状況なのではないか。次の一戦、「らしく」なくてもいいから、勝ちにいくゲームが見られれば嬉しい。健闘を祈っている。



連休明けで久しぶりに書くので、まあ軽い話。

連休中、久しぶりに「「蒙古タンメン」を食べた。それにしても、なんで蒙古なんだか。調べると、創業者が「モンゴルは寒いから辛い物を食べているのだろう」と妄想したらしい。

まあ、この手の、「地名勘違い」というか「地名思い込み」の食べ物は結構ある。

古典ではスパゲティの「ナポリタン」だろう。あれは代用品を通り越して、ある種“日本料理”になっている気がする。

神保町の名物「スマトラカレー」もどうなんだろう。

これも創業者が東南アジアを放浪して、スマトラで香辛料のブレンドを学んだことが由来らしい。ただし、いま出てくるのはいわゆる“日本のカレー”だ。インドネシア料理ではない。ポークもあるし。

そういえば名古屋のスパゲティで「ミラネーゼ」というものがある。いわゆる“あんかけスパ”で、ベーコンやハムが入っているのがミラネーズ。タマネギ、ピーマンなどが入っているのが「カントリー」。両方揃っているのが「ミラカン」となる。

何となく平坦なイントネーションで「ミラカン、ちょ」と注文できれば、名古屋弁一級と言った感じだ。ちなみに、小エビや野菜の黄金焼きがのっているのは「サンジェルマン」。もうこうなると、誰も由来を追求しない。

サンジェルマンは、サンジェルマン。それだけだ。

ちなみに画像検索で「ミラネーゼ」を調べると多くのおしゃれな男女に交じってスパゲティの映像が出てくるのが可笑しいんだけど、「ミラネーズ」にするとひたすらスパゲティ。

>> 蒙古タンメン、スマトラカレー、そしてミラカン。の続きを読む