少し前に、「ミーティングの際にパソコンでメモを取るのはNGか?」のような記事をネットで見た。これって、定期的に湧いて来る話で、僕は紙とパソコンを使い分けている。

どっちがいいというわけではない。

何かのファイルにメモしたい時や、そのまま、形にしたい時はパソコンを使う。

考えをまとめながら、構想を作りたい時は紙にする。

ただ、「パソコンは失礼」という人もいるようで、こうなると、もうよくわからない。そんなこと言ったら、メモだって失礼なんじゃないか。

さて、その一方で大学の講義ではパソコンを使うことは、推奨しない。というか「できれば、やめておけ」と言っている。

ただし「禁止」とは言わない。そういうルールを作ると「自分で考える」という大切なプロセスを学生から奪うと思っているからだ。教室の中で権威的に振る舞うことは簡単だが、思考を促すためには少し工夫がいる。

では、なぜ講義の際は手書きノートがいいのか?そう考える人は多いようで、これについては、米国などでも研究があってこちらの記事などに書かれている。「学習効率を下げる」という研究結果が次々に出ていたり、他の学生に悪影響があるというからだ。 >> 「講義でパソコン”禁止”」とは言わないけれど。の続きを読む



昨日、NHKスペシャル取材班『健康格差』の中に書かれていた「自己責任論」の話について気になったことを書いた

「格差拡大で“自己責任論”が強まったけれど、そもそも日本人は助け合ってきたのではないか」

このことについて、最近感じていることを書いておきたいと思う。

イソップの「アリとキリギリス」という寓話がある。これは、「自己責任論」の典型だろう。いまの子どもに対してどのように教えているかは知らないが、僕なんかは「キリギリスになってはいけない」という話で聞かされてと思う。

なんか、辛気臭い話で好きではないけれど「努力すれば報われるし、そうしない人はダメ」というフレームは今でもそうだろう。勉強からスポーツまで、努力は肯定的に扱われている。

このような発想が日本人に定着したきっかけとして挙げられるのが、サミュエル・スマイルズの「自助論」という本だ。この本自体は未読の人でも、「天は自ら助くるものを助く」というフレーズは聞いたことがあるのではないか。

いまは「自助論」というタイトルで複数の訳が出ているが、もともとは「西国立志編」というタイトルで明治4年に出版されてベストセラーになった。西洋の成功者の物語を描いた話だが、これは時の風潮に乗った。

やれば、できる。今でも当たり前のように語られるこのフレーズも原形を探ればこの辺りに行きつくだろう。 >> 「自己責任論」は最近の日本人の発想なのか?の続きを読む



「格差」という言葉が社会的なテーマになったのは今世紀に入ってからだろう。いろんなデータを見ると、実際は90年代初頭からジワジワ広がってきたといわれる。ただし、小泉内閣の「新自由主義」と絡めて、格差が拡大したという印象が強いようだ。

そして、「自己責任論」が広がっていったと思われている。

ただ、その辺りについてちゃんと検証したわけではない。

NHKスペシャル取材班の『健康格差』という本も、その辺りの「常識の壁」にぶち当たっていると思う。健康格差が、個々人の問題ではなく社会全体の問題であることは確かだと思うけれど、その背景にある心理分析は表面的で、むしろミスリードしてしまう気さえする。

この本には番組の採録がある。健康は自己責任か?いや、誰だって弱者になるのではないか。そういう宇野常寛氏に対して、70代の男性が異を唱える。自分は不摂生をやめたんだし「強い意志を持てば自己管理できる」という。

それに対して、宇野氏が「国家や社会っていうのは、サイコロ振って変な目が出ても、ちゃんと生きていけるためにあると思う」と反論した。

この言葉に、NHKの神原一光氏は「心に強く残った」と書いている。

ところが、この「サイコロ」の比喩はそもそもおかしい。たしかにいくら努力しても、健康を崩すことはある。ただし、サイコロのようにまったくコントロールできないわけではない。

その意味で、先の男性の言葉に対する反論としては半端だろう。このサイコロの比喩では、「健康格差を解消するために助け合う」というロジックにモヤモヤしてしまう自己責任論者を説得できるわけがない。

それよりも、平野啓一郎「国が成人病を『生活習慣病』とした」ことが、一つの問題ではないかと言っている。この言葉の変化はとても重要だし、これが「自己責任」という発想を強めたともいえるだろう。 >> どこか中途半端なNHKスペシャル『健康格差』の続きを読む



同じ環境にいるのに、不満が多い人と少ない人がいる。

そして、不満の多い人は、自分を不幸だと自覚するだろう。それを口に出せば、聞いている人は幸福になれない。

そして、人が知らず知らずのうちに離れていくので、不幸は増幅される。

当たり前のことのようだけれど、クリスマスが近づくと、毎年のようにそんなことを思う。

クリスマス、あるいは日本の年末年始は、ある意味で「きつい」季節でもある。めでたくない人にとっても、社会が「おめでたさ」を強要する。ある意味で「喪中」というのは、賢い発想かもしれないが、クリスマスにはそれがない。

しかし、そこには「仕掛け」のようなものがある。それは、自分の境遇に関わらず、クリスマスを迎えることに「感謝する」ということだ。唐突かもしれないが、この時期に礼拝に行けばすぐにわかる。

クリスマスは、キリストの生誕を祝い、神に感謝する。その気持ちにおいて、人と人の間に隔たりはない。助け合いなどは、ごく自然なこととなるわけだ。

ところが、日本のクリスマスは「よくわからないけど何かしなけりゃ」という日だ。「何がめでたい」と思う人にとってはたしかにきつい。 >> クリスマスを前に考える、「感謝と不満」の深い関係。の続きを読む



最近、SNSで「男性トイレの個室の混雑」が話題になっていた。

女性の場合と違って、「男性トイレの個室」というのは何をするかが決まっている。まあ、細かくは書かないけどそういうことだ。

つまり、家の外で「大きなことをしたい」わけで、こう書くと「それはいいんじゃないか」と思いそうになるが、そういうわけでもない。「大きなこと」と言っても、そこに大志があるわけではない。

迫りくる現実があるだけなのだ。

会社を辞めて1人で働くようになって13年以上が経つが、最初に気づいたのはこのことだった。

つまり、「家を一歩出たフリーランスに安住できるトイレの個室はない」ということである。会社のトイレというのは、基本的には社員のみが使用できるクローズな空間だ。何の疑いもなく使用していると気づかないが、これはまさに「会社員の特権」じゃないか。

それくらいしないのか?と思われそうだが、結構重要なのだ。

「ノマド」などと気取っていても、本物の遊牧民じゃないから、結局はトイレで右往左往する。

そういうわけで、朝から出る日は早めに起きて、なんというか「憂いを残さない状態」で外出するようにしている。 >> 「トイレ個室難民」と「働き方改革」の関係を論じてみたりする。の続きを読む