「つながる価値」を疑ってみる。
(2016年3月30日)

カテゴリ:世の中いろいろ

最近、1人で舞台を見に行ったりすることが多い。室内楽や能など、客数も少ないが、つまり世間的にはより少数派の集まっている空間だ。

オーケストラのコンサートでも、真っ当なホールなら満席でも2000人。ポピュラーに比べれば桁が違うし、スポーツイベントとは比べ物にならない。

とはいえ、サントリーホールの終演後にツイッターを見れば、その夜の感想が結構見られる。20以上も並べば、「おぉ、結構盛り上がってるな」という感じだが、それでも冷静に考えれば、ツイートしているのだ聴衆の1~2%程度ということだ。

コンサートで1人で聴いた後に、(素晴らしい!)と思っても、何となく妙な不安のようなものが広がり、しばらくしてツイッターを見てしまう。以前だったら、しばらくしてからネットの掲示板などを覗いてたこともあったが、いまはそういうメディアもなく、みんなツイッターで思い思いに言葉を発する。

ネットの向こうに、見ず知らずの人が同じように感動していて、その「つながっている感じ」というのは、たしかに悪くはない。

ただ、その感じを「心地よい」というのではなく、「悪くはない」と書いたのには理由がある。やっぱり、1人で行った舞台の後でツイッターを覗いたら「負け」なんじゃないかという感覚もどこかにあるのだ。

なぜ、その感動を、わざわざ検索してたしかめなければならないんだ?好きだから、1人で聴きに行くんだろ?

と、誰が言ってるわけでもないが、まさに天の声のようなものが何となく感じられるのだ。

ネットの時代で、「つながる」ことがことさらに価値となり、つながる喜びや安心がとても大事なことのように言われた。その弊害があることなど、みんなどこかでわかってる。でも、わかりながらも続けている。

いつか月食の夜に、ふと気になってツイッターで「月食」で検索すると、いろんな人が見ているんだなぁと思う。その中で、こんな感じのツイートが結構多かった。

「みんなが、どこかで一緒に月食を見ながらつながっている感じが嬉しい」

若い人なんだろうな、と思うが、1人だけでなかったのが気になって、その夜はずっと月食関係のツイートを見ていた。

(それが「つながってる」なんて、相当な錯覚だよ)

と、見知らぬ人に対して思っていたのだが、気がつくとコンサートの後で自分がやっているのも似たようなことだったわけだ。

で、能や室内楽、ピアノリサイタルなどの後にひっそり検索してみた。

どうなるか?実に何も出て来ないのである。舞台が終わった後には、みんな心の中にそれぞれの思いを持ちながら、もちろん誰かと来てる人は感想を分かち合いながら、帰路につく。しかし、わざわざツイッターに書く人はいない。そういう世界も、まだまだあるのだが、段々とそれが心地よくなってきた。

そうやって、1人で観て、聴いて、1人で反芻する。美術館や寺社も同じだ。そして、そういう時には、実に様々なことを考えている。

「つながった」ことで失われたものは何だったのか。そんなことを書いてるこの文章も、またネットの上のことなのだけれど。