「瀬戸の花嫁」をマーケティング的に語ってみる。
(2017年7月24日)

カテゴリ:マーケティング

平尾昌晃氏が旅立たれた。

あれだけの曲を作っていただけのことがあり、見出しもさまざまだ。「カナダからの手紙」というメディアもあったが、個人的には「瀬戸の花嫁」かな。

1972年というから、小学3年生の時だ。

「瀬戸ワンタン しぐれ天丼~♪」という替え歌が流行っていたが、ネットで調べると微妙に違うバージョンがありながら、結構広く歌われていたらしい。エリアごとに違ったりするのか、柳田國男が生きていたら調べてくれたんだろうか。

改めて小柳ルミ子の歌を聞いて楽譜を確認すると、なるほどなと思うことがあった。

「瀬戸は」の“は”や、「しぐれて」の“て”は、二分音符だ。しっかり伸ばすことになっている。

しかし、実際の歌は違う。伸ばすこともあれば短めに余韻を持たせることもある。だから、その隙間に何か食べ物の名前を入れることを思いついて、あの替え歌ができた。

言葉に余韻を持たせた作曲だからこそ、誰にでも口ずさめる名曲になった。そして、演歌でもポップスでもないメロディーを作り出したのだから、やはり時代を読むカンも鋭い人だったのだろう。

ただ、この歌詞の世界が「ちょっと古いんじゃないか」というのが、子ども心にも感じていた。

「若いと誰もが心配するけれど」「幼い弟行くなと泣いた」という「嫁入り」は、少なくても異国のイメージだった。もちろんイメージは和服だ。

もうその頃の結婚式イメージというのはウェディングドレスだったんじゃないか。僕が東京生まれだからかもしれないが、翌73年には「てんとうむしのサンバ」という歌がヒットしている。こちらは「森の小さな教会」だ。

もっとも、それだって現実離れしていたんだろう。でも、イメージはそちらに向かっていた。

「瀬戸の花嫁」がヒットした前年の1971年は、いろいろとマーケティング的には節目だったと言われる。non-noの創刊、カップヌードルの発売、マクドナルド1号店のオープン。カンタンに言えばカジュアル化だ。少し前の学生運動も下火になっていき、伝統的な日本文化がだんだんと薄れていく頃だった。

そのような背景で誕生したのが「瀬戸の花嫁」だった。

当時はよくわからなったが、中年にとっては「過去の心象風景」が蘇る歌だったのだろう。当時40歳だった人は、いまは85歳。昭和一桁か、あるいはもっと上の世代の人があの歌を支持したんじゃないか。

「島へ嫁ぐ若い花嫁」自体が、もはや現実的ではなくなろうとしている頃だから、あの歌はヒットしたように思う。

ところで、例の替え歌だけど最後の「父さん母さん 大事にしてね~」の“ね”の後がどうしても思い出せない。
ネットで調べると「練りがらし」や「ねこまんま」とかあるが、それはあんまりだろ。最後なんだから、もうちょっとおいしそうな食べ物はなかったのか。

しかしこれは結構難しくて、やっと思いついたのが「ねぎま焼き」だった。誰か、「正解」を教えてくれないかな。