しかし、欧米のように都市封鎖が起きると、文化やスポーツは全くなくなり、クルマなどの工業生産も止まり、食べて生きるための最低限の活動だけになっていく。会うのは家族か周辺の人々のみで、宗教にすがる。ふと思ったけど、これって考えてみれば「中世」なんだろう。

お酒を飲んで騒ぐことも「笑い」もなく、なんか『薔薇の名前』を思い出す。ITがあるとはいえ、まさか中世を体感するとは思わなかった。

そう考えると、観光や外食などいま大きな影響を受けている業界は、近代以降に盛んになったものだ。

そうなると、欲求も変化するのだろう。そこでふと思い出したのがマズローの、あの欲求段階説だ。用語はマズローの『人間性の心理学』(産業能率大学出版部)に準じてる。

気づくのは、とにかく世界的のどこでも、一番基本の「生きること」に精一杯ということだ。もちろん、安全も欠かせない。

そして、誰もが人との絆を確認する。会社から在宅になり自分の帰属先も見直すことになり、愛を求める。

という感じで下からたどった時、ふと気になるのは、承認欲求だ。もともとは、「自己に対する高い評価、自己尊敬、あるいは自尊心、他者からの承認などに対する欲求・願望」と書かれている。ここで想定されているのは、仕事などを通じて社会から認められることだが、これがネットの普及で相当手軽になってきた。

SNSで「映える」写真をアップしてハートが染まったり、みんなにリツイートされる「うまいこと」を言えば、たしかに承認欲求は満たされる。そんなわけで、知らぬ間に承認欲求は肥大化したり、時にはこじらすようになっていた。

しかし、SNS上の写真の両雄である「旅行」と「外食」は封印されてしまった。エンタテインメントも滞るから、政策に文句言うくらいしか大喜利のネタも乏しい。

そこで、みんな思うんじゃないか。「なんだ、承認されなくても別に生きていけるじゃないか」と。

もちろん、いつかはまた世界も戻るかもしれない。けれど、まったく同じになるのだろうか。このような中世的な生活にも何かの価値を見出していく人も増えるんじゃないだろうか。既に欧米では農業生産に影響が出ているから、今年の後半は「食べること」自体が大変になるかもしれない。
そして、続いて来たグローバル化に「騙された」と感じる人もたくさん出て来るだろう。

マズローが、欲求を論じたのは20世紀中葉のことだ。しかし、改めて考えてみると承認欲求の普遍性はどのくらいのものなのか。生きていくうえで本当に大切なこと、満たすべき欲求について現代の、特に先進国の人は何か勘違いしていたのかもしれない。

ちなみに「自己実現欲求」というのは、原著をちゃんと読めばごく稀に見られるものだということがわかる。つまり「自己実現を目指しましょう!」と安易に言う人のことは信じない方がいいと思うんだけど、そうやって足元を固めずにフワフワと「上」を目指してきた人間に対して、価値観の見直しを迫っているように感じるのだ。

コロナ禍のあとの世界は、大きく変わるだろう。そして、そこでは「中世」がキーワードになると思ってる。

 



予定がどんどん空いている。と言っても、仕事はミーティングがオンラインになったくらいで変化なく、コンサートや芝居が休演になっているので、時間が空くのだ。まあ、馴染の店に順繰りに顔を出して食事したりしている。

この公演中止は、関わっている人のことを思うといたたまれないんだけど、賛否を言えるかというと、感染症の知識がないだけに難しい。確率的に考えれば、規模が大きい方がよくないことくらいわかるけど、ライブハウスと芝居では接触や観客の発声とか全く異なる。

クラシックコンサートなら咳をするのも憚られる。歌舞伎だったら「音羽屋!」みたいな「大向こう自粛」とかしたら?下手な落語家なら笑えないからやってもいいけど名人はダメでしょ、などと話しているうちにあらかたなくなってしまった。
そんな中で野田秀樹氏が「意見書」を出した。読んだ人も多いと思うけれど、僕は「間違ってないけど、なんか違和感があると思った。とくにこの辺り。

(引用)演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません。ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは「演劇の死」を意味しかねません。(引用ここまで)

まあ、そうだと思う。スポーツを下に見てると思う人もいるかもしれないけど、まあ「自分が一番」と思ってなけりゃこういう仕事はできないし、まあいいか。でも、やはり何かが引っかかっていた。

で、昨日3月13日に行く予定だった、柳家三三の落語独演会が中止になってしまった。そして、彼のホームページにはこんなメッセージがあった。

(引用)3月13日の「月例 三三独演」はコロナのせいで、開催断念、中止いたします。

やるかやめるか皆んなですごく悩みました。大勢が集まることで感染リスクが高まる催しを行う決断が僕にはできませんでした。

ごめんなさい。

でも指をくわえてやめるだけでなく、慣れないことだけど同日同時刻に落語をやって、YouTubeでご覧いただくことにしました。

しかもどなたでも視聴可能。だってぼくも落語をしゃべることに飢えてますから。

もろもろ詳細はこの後あらためてご案内させていただきます

この形がベストとは思いません。でも今できる精一杯です。1日も早く会場で会える日が来ますように!令和2年3月5日 柳家三三(引用ここまで)

そういうことか。「演劇の死」と観念を振り回すのは、さほど難しいことではない。でも、三三の言葉には観客への想いと、落語を愛する気持ちが溢れていて、しかもYouTubeで誰にも見られる「会」にする!

生の落語と配信は、同じではない。そんなの誰にでもわかる。でも三三は考え抜いて「代替案」を実行する。2つの文章のどこが違うのか?

それは一言でいえば当事者意識だろう。批判も意見も誰でも言えるけど、それでウィルスはなくならない。でも、すべてに開放された三三の芸を見れば、きっとストレスは低減される。だったらいわゆる「免疫力」が上がるかもしれないくらいの期待もあって、それだけでも三三は誰かを幸せにするだろうな。
この2人の言葉を比べた時、「生きた言葉」の意味が初めて分かった気がする。

 

 

 



コロナウィルスをめぐる「空気感」は今までとどこかが違う。震災や台風のあとも、観光や外食に影響があったけれど、あの時の「被害と悼む」自粛ムードとは明らかに別の空気だ。

報道がおなじテーマ一色という意味では似ているんだけど、ふと気づいたのはNHKなども「L字」になってないこと。

被害や交通の状況を刻々と伝える画面は「有事な空気」を醸し出していたが、いまのTVはL字はもちろん編成もそのままだ。

L字というのは、それが「いつか終わる」ことであり、その後は復興などに向けて人々が動くという記号でもあったのだろう。しかし、今はどうしようもない。誰もが「被害者/加害者」になる可能性があり、不安が増幅すれば流言が飛ぶ。

そして、こういう時こそ、やたら「安心」を求めるのではなく、「信頼」が必要なのに日本人はそれが苦手ではないか?という問題提起をしたのが社会心理学者の山岸俊男氏だった。

「安心」したいけど、「信頼」はしない。日本だけでなく西欧以外は同様の傾向にある、という分析の詳細は本書を読んでいただくのが一番なのだけれど、今回気にしたのは「商人道」と「武士道」の対比だ。これはジェイン・ジェイコブス『市場の倫理 統治の倫理』で指摘されていることを引用なのだが、いまのような時にこの対比を見ると、とても面白い。

「市場の倫理=商人道」こそが求められるが、「統治の倫理=武士道は、事態をややこしくするように感じるのだ。

その対比を抜粋するとこんな感じになる。

 

【市場の倫理】 自発的に合意せよ/正直たれ/他人や外国人と気やすく協力せよ/創意工夫の発揮/目的のために異説を唱えよ/楽観せよ

【統治の倫理】 勇敢であれ/規律遵守/位階尊重/忠実たれ/剛毅たれ/運命甘受/名誉を貴べ

 

もうお分かりだと思うが、今回の感染拡大でいち早く行動したのは企業だった。しかも若くて機動力あるプレイヤーがまず動いた。一方で国の施策が発表されてから混乱がかえって高まっている理由はここにある。「頑張ろう」という話は全く効かない。国民一丸も意味がない。
アタマをつかって協力しよう、ということに尽きるわけで、ネット上でも善意の交流はちゃんと起きている。

おもしろいのは、こういう時に行動することもなくSNSなどでも政治を論じている人は、右も左もほとんど建設的でないということかな。結局それは統治の倫理を異なる角度からのたまっているだけだからなんだと思うとわかりやすい。

でも、僕はこの騒動後の日本を楽観している。統治の倫理が有事の際に不合理であることを学び、商人道を進もうとしている多くの人のうねりを感じているからだ。

 

 

 



東海道新幹線で乗務員が英語のアナウンスを始めた。

東京オリンピックのマラソンが、北海道で開催されることになった。

コンビニエンスストアの24時間営業の見直しが話題になって、大学入試の民間英語試験の導入が延期になった。

一見、関係ないことのようだけれど、その後目にしたメディア上の反応、もう少し細かくいうと「ネット上の匿名の声」に共通点があったことが気になっている。まあ恣意的に拾われる、テレビの街頭インタビューも似たようなところはあるかな。

どこか、他人事として「嗤って」いる。「ほら、だから無理しなきゃいいんだよ」という感じで、なんか小賢しい感じだけど、安全地帯から言ってるだけだ。

それだけならいいんだけど、そうした声を拾い集めて「○○に賛否」とか見出しつけたトピックが、ネットの“ニュースメディア”には溢れているわけで、それが世の中の空気を作っていくんだろうなと思うとちょっと気になる。

なんか、現場で頑張っている人の視点がすっぽりと抜けている。

新幹線のアナウンスがたしかに拙いかもしれないけど、一人ひとりは懸命だと思う。オリンピックのコース変更で僕がまず思ったのは「準備してきた関係者は無念だろうな」ということだったけど、そういう切り口ってあまりなかった。

そもそも関心を持っていないのに、うまく行かなくなった頃「やっぱダメじゃん」というのは誰でも言える。 >> 2020年は「嗤う」空気に背を向けたい。の続きを読む



コーンフレークが一気に話題になった。

昨夜のM-1グランプリのミルクボーイのネタなんだけど、受けていたし、ああうまいなと思った。笑いの「つくり」としては、決して新しくない。ぺこぱのように、斬新なツッコミ方をするようなわけではないけど、やはりおかしい。

なんでかな?と思うと、この漫才の本当のボケ役は「コーンフレーク」なのだ。

誰もが知っている食べ物。しかし、コーンフレークには隙が多い。もともと、朝から米を炊くという稀に見る手間をかけた朝食の国でコーンフレークは頑張ってきた。でも、なんか大変そうだ。

やがて、朝食にご飯を炊く家庭は減って、パンが増えて、やがてコーンフレークに行くかと思うと、一気にグラノーラに、「一人飛ばしてパス」という感じじゃないのか。

その、ちょっとした隙を多くの日本人は知っている。だから「最後の食事」も「夜ご飯」も笑いになる。たしかに「五角形」もどこか怪しい。そして「パフェのかさ増し」というのも微妙な役どころだ。

「誰に感謝していいのか分からない」というのは、「腕組みをした虎」の伏線だけど、そもそも「お百姓さんに感謝」という、いまや言われないけど何となく知ってる共通知識を上手についている。
そうか、これを七面倒くさく書くと、コーンフレークに対する日本人のスキーマを利用して、そのインサイトを上手にいじったわけだ>> そうえいば「コーンフレーク」ってツッコミどころ多いよね。の続きを読む