冨田勲氏が逝去された。

多くのメディアの見出しに「シンセサイザー」という言葉が一緒に並んでいる。もちろん、シンセサイザー奏者としても有名であるが、作曲家であり、映画やテレビを中心にたくさんの作品を残した。

とはいえ個人的な記憶は「シンセサイザー」という未知の世界を拓いた人、というイメージが強い。ちょうど中学生の頃にアルバムが発表されて、幾度となく聴いていた記憶がある。

後になって、「新日本紀行」などのタイトルバックに名前を見つけて「あ、そういう人だったんだ」と思った記憶がある。失礼な気もするのだが、そのくらい「シンセサイザーの冨田勲」だったのだ。

今にして思うと、氏のシンセサイザーのアルバムは絶妙なポジションを突いていた。サウンドは斬新で、録音ならではのさまざまなテクニックが駆使されている一方で、その素材はおもにクラシックに求めている。

ホルストの「惑星」ムソルグスキーの「展覧会の絵」、あるいはドビュッシーの「月の光」などだが、いわゆる典型的で硬派なクラシックではない。誰もが口ずさめて、色彩感が強く、表題性の高い曲を選んでいる。

だから冨田勲のアルバムを聴いた人が、どのような音楽を聴いていったかというのも結構さまざまだろう。シンセサイザーの魅力に取りつかれた人もいれば、アルバムをきっかけにクラシック音楽を聴き始めた人もいるだろう。

強烈なインパクトで、実に広範な影響を及ぼしたと思うが、単なる「音楽アルバム」を超えた存在だったと思っている。

冨田勲のアルバムは、単なる編曲ではなかった。それは当時の聴き手にとっては共有されるべき「未来」のイメージだった。そして、それは地球の外へと広がっていた。当時の中高生にとっては、十分「妄想に値する未来」が感じられたのだ。 >> 冨田勲が感じさせてくれた、未来。の続きを読む



五輪の新エンブレムが決まった。まあ、万人が納得するデザインなどできるわけもないのだから、決まったものを大切に育てていくということだろう。それにしても、この選考で感じたのは、いわゆる「グラフィックデザイン」が転機、というより終焉を迎えているのではないか?ということだった。

一般的にグラフィックデザインというと、二次元上の作品を指すが、メディアも多様化ししているので、正確には「平面デザイン」と言った方がいいのかもしれない。紙を中心とした媒体を念頭に置いたものである。

当初の佐野研二郎氏の案は、類似性が問題になったが、個人的に感じたのは「グラフィックデザイン界の呪縛」が強いなあということだ。一方で、当時の審査員の顔ぶれを見ればあの作品が選ばれたことも理解できる。

僕が気になったのは、東京のTと、日本の日の丸についてのこだわりが強すぎるのではないか?ということだった。特にTの文字をモチーフにすると水平と垂直が強調される。それは、どうしてもスポーツの躍動性とは離れていってしまうように感じた。 >> 五輪新エンブレムで感じた、「平面デザイン」の終焉。の続きを読む



「住む」と言えばいいのに、「住まう」と書くのはマンション広告の常識のようになってしまった。個人的な記憶だが、関西出身の方から「どちらに住まわれているの?」と聞かれた経験はある。

だから、西の方の言い回しかと思っていたが、どうなんだろう。ただ、広尾には「住まう」ようだが、「大字狸洞」だったらどうなのか。「住まう」はどことなく上品な感じだが、会話ではまず聞かない。

こうした、ある種の「文語表現」は、ネットの広まりとともに目立つようになった。典型は「食」に関する言い回しだろうか。

「食す」というのは、「住まう」に近いのかもしれないが、文語的でどこか上品だ。ネット上にやたらと食事についての投稿で増える中で出てきたんだろうか。食べているものも、ちょっと上品で鮨やフレンチというイメージだ。

「食らう」というのは、ちょっとぞんざいな言い方になる。「喰らう」という表記もあるが、焼肉やお好み焼きとか、ガッツリした食事のイメージか。「パンナコッタを食らう」とか言わないだろうなあ。 >> 食す・食らう・食わせる、とかの言い回しが気になる。の続きを読む



土曜日の午後、右手の親指の傷を気にしながらテレビを見ていた。

木曜の夕食を作る時にスライサーで切ってしまい、痛みは薄らいだのだがムズムズとした違和感がある。

そして、テレビでは九州の被災地のようすを朝から報じている。いわゆる「本震」が想像以上の被害をもたらしている状況が次々に映し出されていた。

困窮もあれば、心理的不安もあり、もちろん肉体的痛みもあるだろう。しかし、画面の向こうで起きているすべての混沌を合わせても、自分の指先のごく僅かなムズムズした痛みの方に明らかなリアリティがある。

そのどうしようもない距離感のようなものが、妙な不安感を増幅させる。(大変だろうな)と思うほど、自分の指先が妙な主張をする。(痛みはここにしかない)と、自分の指が言っているように感じてくるのだ。

大災害が起きるたびに、僕はこの奇妙な距離感と向き合うことになる。

テレビを見ることを止めて、いつも寄附をしているNPO団体のウェブサイトから手続きをする。早急に動く体制をもっているので、即効性が強い。既に物資を届けたことも、今日のウェブサイトで確認できた。 >> 災害の後、「頑張ろう」に乗れなくてもいいと思う。の続きを読む



IMG_1520桜が散って行く。

今日は天気が良かったので、近所を歩きながら花吹雪を眺めた。自宅の部屋から街を眺めると、あちらこちらに桜が見られる。公園もあるが、立派な桜のある個人邸も結構多い。昭和の風情が残る住宅地ならではの光景だ。

大きな公園の桜よりも、こうした一本桜を眺めながら街を歩くのが、毎年の習わしになっている。

それにしても、最近は桜の開花を心待ちにして、それを喜ぶ空気は近年に一段と強くなってきたと思う。

もちろん、計量できるものではない。全体的に高齢化が進むとそういう感じになるのかもしれないが、スマホのカメラを向けている若い人もたくさんいる。

たしか1990年代後半に東京ウォーカーが桜や紅葉の特集をやり始めた。映画や演劇など「人工的なエンタテインメント」を網羅した“ぴあ”から、流れが変わったなぁという話を会社の同僚と話したことを覚えている。

それにしても、なぜ桜に惹かれるんだろうか。

もちろん、花の美しさはある。ただ、それ以上に何か心を動かす不思議な力があって、それは他の花にはないように感じる。

よく散り際が美しく、それが無常観や死のイメージを喚起させるという話も聞く。ただし、それは西行の歌や梶井基次郎の影響かもしれない。

僕は満開の桜を眺めていると、なんか「いろいろなことが赦される」ような感覚になる。氷が溶けて、水も温んで、風も爽やかな春の日に、花が咲く。眺めているだけで、ふと俗事を忘れる。じゃあ、原稿が遅れた時の言い訳にこんなのはどうだろう。

「すいません。桜があまりに美しくて」 >> 桜って、すべてを赦してくれるような気がする。の続きを読む