(2012年2月13日)

カテゴリ:世の中いろいろ
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「タワー棟」を新築した。別に家を建てたのではない。自宅の仕事部屋の棚を増築したのだ。おそらく、その殆どは書物で埋まるだろう。
今の部屋はオーダーメイドの書棚とデスクがある。難儀なのは書籍の収納だ。どうにも大変になって来たので、写真のように棚を増やしたらいかにも「タワー棟」のようだ。
この部屋には写真に写っていない所にもう一つ本棚がある。別の部屋にもあと二つあって、この工事と一緒のタイミングでもう一つ増やした。
で、近所のレンタルルームに天井までの書棚が5つある。これがかなり埋まってきている。つまり書物の収納はかなり悩ましいのだ。どうしてくれよう、というわけで当然電子書籍の話が気になる。キンドルとか、どうなるんだろ。
電子書籍に否定的な人って、こういう悩みはないんだろうか。よほど広大な家に住んでいるのか、何か本を小さくする技術でも持っているのか。ドラえもんにあった気がするが、そういう道具が。
出版関連ビジネスが、電子書籍にいま一つ積極的でない理由もいろいろあるだろう。「紙は古い」で済むわけもない。自分だって本を書く立場だから、まあ事情はわかる。しかし、一人の読者としてはやはり「アトムからビット」になってもらわないと、収納のためにカネを使うのはいい加減にそこそこにしておきたいわけだ。
しかし、日本で電子書籍の展開が鈍いのは「日本」の問題というより「日本語」の問題なんだろうと思う。

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facebookをそれなりに使ってみて思ったのは、他愛のない楽しさといった感じだろうか。あくまでも自分の周り、という限定だが話題になっていることって、幾つかのパターンがある。
「シェアネタ」というのは、ある期間にパーッと広まる。最近だと「幼稚舎の入試問題」とか「乗りそう予報」みたいなゲーム。「錯視」とかもあるかな。そして「いい話」が少しあって、その他は「お笑いネタ」というもの。「大人のあいうえお」とか「正義の味方と悪の組織」みたいなのこれは、結構前に見たようなものがfbで復活していることもある。
イベント・リポートは、やっぱり食が多い。実は気になって、適当に名前を検索して知らない外国人の知らない人のウォールを片っ端から眺めたのだけれど、食べ物の写真は殆ど見ない。日本的なのかな、誰か教えてくれ。そして、外食よりも手料理が多い気がする。スポーツは観戦というより参加。なぜかfb上では皆ジョギングで走り回っているようだ。で、旅行。友人よりも家族が目立つかな。
で、世間話があって、レビューなど。ただ、こうやって考えてみると存外にレビューが少ない気もする。あまり、深いことを書き込まないことがお約束になりつつあるのかもしれない。
でも、facebookの空気感はやはり「いいね!」ボタンによるところが大きいと思う。これは「like」の訳なんだろうけど、「いいね!」を押すときはどちらかというと「good!」に近い感覚になっているように感じる。しかも英語にはない「!」が曲者で実際の気分以上に盛り上がっているような錯覚を起こしているんじゃないかな。

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僕の十年以上年配の方と話していると「鶏肉が苦手」という方が稀にいる。どうやら、幼い頃に、首を刎ねるのを見たことが強烈な印象になっているという。僕なんかにとっては、全く別世界という感覚だった。
最近話題になった「普通の女子が鴨を絞めて、お雑煮にしたお話」というのを読んで、そんなことを思い出した。これは、自分には出来ない。言い訳はいろいろあるが、まずできないと思う。
彼女のことは知らなかったのだが、こんなインタビュー記事が紹介されていて、それも面白かった。そして、こんな言葉が印象に残った。
「そうなんですよ。私はお金が中心の世界からそろそろ降りたいなと。もうレースにはついていけないんですよ。見えてるゴールがあまりにも残念すぎるというか、全く私が望んでないものなんですよね。私はもっと等身大で人間らしく生きたいし。」
いろんなことを考えさせられるインタビューだった。
それは、時代の気分だろうし、似たような感覚になる人は多いようだ。しかし、その一方で、僕はまだ「お金が中心の世界」から降りることはできない。それは、お金が必要なことはもちろんだが、降りるほど強くはないからだ。
実は、お金というのは「弱者の味方」という面もあると思っている。

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橋下徹氏の現在の最大の功績は「文化人の能力」を明らかにしていることだと思う。テレビでの論争もそうなんだけど、その後にこういうダメな文章を残してしまうことで、ますます文化人の底を明らかにしていく。
これはある種の「ろ過プロセス」のようなものだ。ただ、そうやってダメな文化人がとかされた後に、澄んだスープになるのか、実はただの水でした、ということになるのかはわからないんだけど。
「反橋下」という人々が出てくるのは、それはそれで必然だと思うんだけど、じゃあなぜダメなのか。それは、正面から「意見」を言っていないからだと思う。
大雑把にいって「政策がよくない」のか「方法がよくないのか」という二つの切り口があると思うんだけれど、正面から政策の問題に切り込んでいないように見えるのだ。「都構想」や教育委員会の問題だってあるのに、すぐに「方法論」に逃げている。
そして「独裁的」だとかいう言葉になる。そうなのだ。選挙で勝ったということは民主的手続きで政策が支持されたのだから、どうしても文句が言いにくい。そこで手法にケチをつけるしかないのだろう。
しかし、それは実は多くの人々(有権者)の感情を逆なでしていることに気づいていない。そもそも日本人は「自分たちの多数意志」が政治に反映されないことにイラついてきた。かつての中選挙区制では政権が選べず、とりあえず政権を選んでも参院の半端な制度のせいで、前に進まない。
そのフラストレーションが、もっともわかりやすい首長選に向かっている。
つまり「自分たちで選んだ」という人が多数派なのに、「独裁的」「少数派切り捨て」という、「戦後民主主義文学」による批判は多くの人に嫌悪されるだけではないか。
民主主義は、多数が独裁するシステムだ。しかし、それを変えることもまた可能であり、それは有権者の仕事だ。半端な文化人への反発は、彼らがその大事な仕事にケチをつけて「自分たちの意見を聞け」と言っていることにある。だが彼らはそれに気が付かない。
何だか霞ヶ関より前に「文化人村」が解体されていくような気がしている。
■お知らせ:昨日の日経朝刊で新刊「世代論のわな」が紹介されました。詳細はこちらのエントリーで。



(2012年1月19日)

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「食べログ」をめぐるトラブルの話って、なんか安易に糾弾できないような気がしてる。
まあヤラセがよろしくないのはともかく、何というかあのサイトを気にしないと思いつつ、気になる自分がいたりするわけで。
それは、ある種の「病」じゃないかと思っている。あえていえば「不安と嫉妬病」とでもいうんだろうか。
食べ物を巡る情報は溢れていて、かつニーズも強い。ただ、誰もが自分の味覚に自信を持っていないのだろう。だから、食の情報なかでも点数化されたりランキングされるものが人気になる。
おいしいと思ったレストランに行った後で、ネットの情報を見る。それは、コンサートや芝居のあとに批評を見ることに似ている。共感できれば、自分の体験はより豊かなものとなっていく。
問題は、そうでない時だ。ここで「やっぱり味のわからないやつが匿名で言いたいこといってるや」と思う人が多数派ならば、食べログだってあんなに見られないだろう。そうなると恐る恐る、自分の納得度を上げてくれる情報を見たくなる。
その一方で、「もっとおいしいものを食べている人がいるんじゃないか」という、気持ちもあるだろう。偉そうに食べ歩きを誇っている人への妬みも起きてくる。価格の高い店だと、そうした妬みが行間から滲んでくる。

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