結構ネットなどでは取り上げられたので、知ってる人も多いかもしれないけれど、信州大学の学長が入学式で、スマートフォンについて述べられた。「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」という部分が記事の見出しになったせいで、やや誤解を受ける面もあるのだけれど、全体としてどう話されたのかを確かめておきましょうか。(サイトを読む)

「自らで考えることにじっくり時間をかけること、そして時間的にも心理的にもゆったりとすること」を強調されているわけで、その文脈でスマートフォンに言及したわけだよね。

実際問題として、「スマホをやめろ」と迫ったわけでないでしょう。要は、一つのメディアに頼り切りになるな、ということだと思うし、それは妥当だと思うんだ。

で、ここで、ちょっと別の切り口でスマートフォンについて考えてみたいんだ。

それは端末の「絶対的な大きさ」ということです。実はどんなに科学が進んでも、人間という生物の大きさはそうそう変わりません。もちろん時代によって変化はあるけど。

だから自分の体より大きい動物は犬でも怖いし、逆にチワワなら大丈夫、と思いますよね。

メディアも同じで、結構絶対的な大きさからの影響はあるはずです。新聞は相当大きな紙です。同じサイズのパソコンモニターはそうそう使ってないでしょう。そもそも、他の紙メディアに比べても大きい。そこに、でかい見出しをつければインパクトはあります。

一方で、スマートフォンは掌で片手で使える。もちろん、それが狙いです。ちょっと大きいタブレットになると、もう難しい。電車で経っている時に使えばすぐにわかります。ただ、スマートフォンばかり使っていれば、その画面のサイズですべての情報を処理する癖がつきます。パソコンであれば、チャートや文章を全体的に俯瞰できるけれど、スマートフォンでは難しい。また、デジタルと紙の本でも特徴は違います。僕は小説は電子書籍で読みますが、学術書などは紙の方が使いやすいと思ってる。ハイライトや栞は電子書籍でも可能ですが、ページをガバッとめくっていろいろと参照するには紙の方が使いやすいですね。

だから、なんでもスマートフォンでOKか?ということにちょっと疑問を持ってほしいし、折角だからいろんなメディアを体験しながら、自分なりのスタイルを作っていくのも、これからの学生にとって必要なことだと思います。

僕は紙の新聞をやめて2年以上になりますが、たまに紙の新聞を読むと、妙に暴力的に感じます。見出しなどの絶対サイズが無用に大きいんですよ。手に取って読むのには、全く不合理です。大きさ自体に権威性がある。

一方で掌のスマートフォンからの情報から、そうは感じない。自分の掌に収まるものは「愛おしい」感じがすると思うし、親しい人からのメッセージであればそれも強まるでしょう。そういう意味で、あの小さな端末は、持ち主だけで完結する小さな世界です。
ただし、大学時代に大切なのは、先の言葉にもあったように「考えることにじっくりと時間をかける」ということでしょう。だとすれば、その際には何が必要で何が不要か。
自分にとって目を向ける世界はどこにあるか、この先はそれこそ自分たちで考えてみてください。(2015年4月7日青山学院大学の講義より)



population

ここしばらく家で仕事をしている日が多いので、昼や夕方は料理をつくったりしながらテレビを見ているんだけど、何が目立つってベネッセのCMが多いこと。この時間帯にテレビ見ている社会人は少ないのだろうけど、ホントに多い。子どもとその親は相当にCMのシャワーを浴びているんだろう。

ベネッセの個人情報流出が発覚したのが、昨年の7月。11月頃から「人は一生育つ」というメッセージの企業広告をスタートさせた。

ただ、この表現はちょっと「高いところ」からの物言いでもある。あの事件から間もないこともあって、「ほほう、では御社はどう成長されるのですか」と突っ込んでみたくなるような感じもしたんだけど。

で、ここに来ていろいろと出てきた。

コンビニでプリペイドカードを販売して、誰でもすぐに参加できる「BenePa」は顧客情報の登録なしというまったく新しいシステムで話題になった。

で、ここに来て進研ゼミのデジサプリというCMがガンガン増えてきた。これはipad対応のようなんだけど、一方でチャレンジパッドという専用タブレットの無料キャンペーンもある。一方で、少し前から本田圭祐も登場している。

後から後から、どんどん手を打っているのはわかるんだけど、全体としてどこに行くのか?というのがいま一つわからないなあ、と思いつつ、この感じ何かに似てるなあ、とずっと気になっていた。

で、ふと思ったんだけど、どこかマクドナルドとかのファストフードに似ていないか? >> ベネッセの戦略は「ファスト教育」なんだろうか?の続きを読む



コピーライターの小霜和也君とは同期入社で、あまりゆっくり話す機会はないのだけれど、お互いが書いているものは読んだりしている。昨年『ここらで広告コピーの本当の話をします。』という本を出して、広く読まれている。その後、ネット上でもコラムを連載していて、先週末に掲載された「~最終章~おれたちの冒険はこれからだ!」を読んで、いたく共感したくだりがあった。

彼はコピーが持つ本質的なチカラが、ビジネスを変化させていくという視点で論じている。だから広告を「『作品』と呼ぶのをやめませんか。」という問いかけもしている。ビジネスモデルを変えなきゃ、今までの広告クリエイティブは厳しいんだということを明晰に語ったうえでこう書いていた。

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僕の言ってることは難しいでしょうか?
そういうことよりも、じつは古いコピーライター像を最も守りたいのは若者たちなんじゃないかと。
コピーライター目指すんだ!という思いが強い人ほど、「コピーライターとはこういうもの」という既成概念がこびりついてぬぐえないようです。
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この感覚はとてもよくわかる。それって、広告業界だけではなく、歴史の中ではよく見られてきた風景なんじゃないかと。アートや音楽の歴史を見ても、急速に潮流が変化していくと、必ずのように“反動”が起きる。古典への回帰、過去への憧憬。そうしたパワーは若い世代から発せられることが多い。

この構造自体は結構単純だと思う。若い人が「新しいもの」を志したら、まずその時代の大きな潮流に逆らおうとするだろう。そして、その流れを作っているのは、自分の親世代あたりになる。そこから振り子を逆に動かそうとした時に、その1つ上の世代に回帰しようとしていく。

ところが、時代の流れというのはそうそう甘くない。送り手であるアーチストが右だ左だと言ってる間に、受け手はどんどん違う方に行っている。潮流が変化しているのに、船の進路を議論していたら、結局は大海の中ではぐれるだけ。そうやって、衰退した芸術はたくさんある。

小霜君が指摘したように、広告を「作品」として語っている人々はまだまだ多い。でも、それは、過去のアーチストが内輪の議論に終始して、もっと大きな潮流を見落としたことと似ていると思う。

そして、新しいアートや音楽が受け手の支持によって広まったように、小霜君の主張もクライアント筋から高い関心と支持を得ているという話も、また符合する。

この現象は広告業界に限らない。かつて繁栄した業界ほど、まだまだ大きな「先人の像」がそびえている。ただ、その像が知らぬ間に亡霊になっていた、ということもまたしばし起きることなのだけれど。



auが年明けから、太郎尽くしだ。桃太郎、浦島太郎、金太郎が登場している。どこかに既視感があるなと思ったけど、桃太郎は昨年PEPSIで、浦島太郎は住友生命でそれぞれ出演実績がある。

で、気になるのは、なぜにこの太郎たち、というか昔話が結構CMに出てくるんだろうか?と。

彼らは現実の人たちではない。まあ、そういうCMはたくさんあるんだけれど、広告の役割は徹底して現実に関与することだ。CMがフィクションだろうと、「購買」という現実の行動のために、それは制作される。

だったら、起きうる現実をそのまま描くという発想も当然あるわけで、グーグルのAndroidやフェイスブックは、そうやってCMを作っている。そのあたりのことは、昨年こちらに「笑顔のコラージュ」と評して書いた。

でも、あのような無邪気な描写は、本当に受けいれられるのか。広告は「これはあなたのための情報だよ」と発信する。そして、世の中の多くが憧れる世界があれば、かつての成長期の日本なら「丘の上の白い家」でよかったかもしれない。

でも、それは難しい。「いかにもありそうな家庭」を描きたいなら、そこに「揺らぎ」を与える必要がある。言ってみれば「リアリティの揺らぎ」だ。

その手法で成功したのが、ソフトバンクだと思う。ごくごく普通の家庭でありながら、「お父さんが犬」という一点で、リアリティは揺らぐ。 >> なぜ最近のCMには、桃太郎とか昔話が出てくるのだろう?の続きを読む



(2014年11月26日)

カテゴリ:マーケティング

先週、西島秀俊が結婚を発表して、直後に向井理も続いた。

ネット上には「早退した」とか「部下の女子が全く仕事しません」みたいな話が相次いでて、中には「これで福山雅治が結婚決めたら喪服で会社行く」みたいな書き込み読んでいて、「喪中女子」という言葉が浮かんだ。

まあ、週明けには早々に喪が明けている気もするんだけど、気になったのは、これ、男性側に同じようなことあるんだろうか?、と。

つまり、誰か女性人気タレントが結婚発表して同じような気分になるようなのって、あまりピンと来ない。先の書き込みに、ある30代の男性が「広末涼子が最初の結婚した時、同じような気分になった」と返答していたの見て、ああなるほどと思ったけど、今だったらどうなんだろう。

いわゆる人気上位の、綾瀬はるかや北川景子が結婚発表して、男性が「早退したい」というのを「そうそう」という雰囲気ってあまりないんじゃないか。

これって、別に女性タレントの力がないわけじゃない。むしろ、受け手側の空気の問題だろうな、と。

つまり、西島秀俊が結婚決めて、しかも元OLだったりすると「ちょっと、それだったら」という感覚で盛大に落ち込む女子、というのは社会的に「まあ、仕方ないなあ」と認知されてる。

だから、ウソかホントかわからなくても「早退した」みたいな話も、ある種のリアリティをもって共有されちゃう。男性がそういう態度しても、多分ネタにならない。

それって、「女子の妄想力って面白いよな」と世の中的に合意しちゃってるからなんだろう。 >> 喪中女子と妄想力ビジネス。の続きを読む