IMG_1328平日の午後、天気もよく時間もあったので上野の動物園に行った。芸大の卒展を見て、谷中の方へと歩いていく。外国人も含めて人が多く、かつてはガラガラだった古い喫茶店にも外で客待ちの列がある。

一休みして本でも読もうと思ったのだが、どうもしっくり来る店がない。古民家を改造していて、オーガニックや何やら書いてあったり、畳の席だったりする。マーケティングしいてるのはわかるのだが、そういう店じゃなくていいのだ。

とりあえず入った店は、近所の人のたまり場になっていた。芸大の学生を囲んで、いろんな人が話しているのだが、居酒屋のように喧しくてロクに本も読めない。喉も乾いたので生ビールを頼んだのが、サーバーをまともに洗っていなのか酷い味がした。

早々に退散して千駄木の方に歩いて行ったのだが、とにかく居心地がわるい。なんでだろうと思ったら、すぐに理由がわかった。前にも書いた「ていねいな暮らし」とか好きそうな人が好む、あの独特な雰囲気があるのだ。

コーヒーと和風の甘味を出す店が目立ち、「昔ながらのナポリタン」とかあり、手染めの製品を売っていて、敢えて言えば「ていねいな暮らしのテーマパーク」なのだろう。

ふと連想したのは、70年代後半の清里だ。なぜかいきなり「カワイイ」文化が流入して「高原の原宿」と言われた。今は落ち着いたようだが、いったいあのブームは何だったのだろう。とりあえずキノコの入ったパスタは「森の小人たちのスパゲティ」になり、シーフードグラタンは「海の妖精のグラタン」になってしまった。

いまの谷根千は、あの空気に近い。こういう作られた町からは、早々に退散したい。僕にとっては、歩いているだけでむず痒くなる道だ。 >> 意識の高い作られた下町、谷根千。の続きを読む



「させていただきます」という言葉は、結構前からあるようだけど少し前の「国語に関する世論調査」でも取り上げられて、NHKの番組でも敬語講師という方が解説してる。

まあいろいろ見ても肯定的な論調は少ないんだけど、ここ5年くらいで「変じゃないの?という話が増えている。

僕も、基本的には推奨しない。「プレゼンテーションを始めます」で何の問題もないと思うのだ。

ところが、この言葉については遥か昔にとある方がバッサリと斬っている。詩人の大岡信が新潮社の「最新日本語読本」というムックのインタビューでこんな風に話しているのだ。

『慇懃無礼。相手との接触に間を置こう、トラブルを避けようというおよび腰の姿勢が感じられます。』また「したいと思います」についても、次のように言う。

『さらに「思います」を加えるのは、決断を避けているわけで、他人に立ち入られたくない、ナメられたくない、責任をとりたくない心理がそこに働いている』

つまり「させていただきたいと思います」は最悪ということになる。

このインタビューは1992年、つまりほぼ四半世紀前のものだ。言葉に敏感な人は、その頃から気にしていたのだなと思う。

つまり「最近の風潮」というよりも、根の深い話なのだ。

と思っていたら、最近驚いたことがあった。実はこの表現に司馬遼太郎が言及していたのだ。『街道を歩く・24』の「近江の人」という節に、この表現についての言及がある。 >> 「させていただきます」問題とNHK。の続きを読む



(2016年1月14日)

カテゴリ:世の中いろいろ

コメンテーターが並んでアレコレ言うようなテレビを見ることは少ないのだが、ネットを見ていて入ってくるテレビの話は、そのような類の番組からの話題が多い。

短時間で気の利いたことを言おうとするコメンテーターの発言は、どうしてもネタになりやすく、ちょっとした弾みに炎上しやすいんだろう。

それにしても、最近目に付くのは古市憲寿氏の話だ。「ハーフは劣化が早い」とか、「手書きの手紙で仕事依頼する人は~」みたいなのを見ていると、テレビ局のために身を挺して話題を提供しているのだろうか、と思ってしまう。(もっとも手書きの仕事依頼は僕も引くと思うし、これが若い会社員のつぶやきならあると思うけど)

「大して中身がなくても、一定の人に反感を買う」発言こそが炎上技の要だ。それは、プロレスにおけるヒールの役作りとも同じこと。

しかし、著作を読むとそれなりに面白いところもあるし、一定の教養がありそうな人が、どうしてこうまでしてテレビに出ては、自分に放火しているのか。その辺のことは本当に不思議だ。
もっとも、テレビのコメンテーターたちの役目は、「盆踊り」のようなものだと思う。みんなで、一定のリズムで踊りながら、適度に茶々を入れる。あまり単調だとつまらないから、ちょっとボケ役もいる。東京音頭が鳴ってるのに、炭坑節を踊って突っ込まれるような感じだろうか。

彼の場合、それじゃ飽き足らないのでダンスを踊って見せているのかもしれない。もちろん、テレビという枠組みの中ではそういう役目も必要だ。 >> 古市憲寿氏の炎上社会学。の続きを読む



年末に羽生結弦が、野村萬斎と対談した番組を見た。狂言の極意を聞かされて相当いい刺激だったのか、途中で「うわぁ、すごい所に来てるな」と地が出たような表情になったのだが、その辺りはファンにとっては相当魅力なのだろう。

こうした感情表現は、当然話題になりやすい。

男子フィギュアの選手同士は仲良さそうに見えるが、実際にそうかはともかくとしても、そういう文脈で、ニュースになっている。野球でも、昨年末スワローズの山田哲人の契約更改に青木宣親がサプライズで現れた時も面白かったが、ジャンルを問わずネタは多い。

男性同士の集団では、この「仲がいい」と見えることが、メディア上では重要になってしばらく経つ。

芸能界では、嵐が筆頭だろう。ファンは、彼らの関係性を消費する。これも事実どうなのかではなく、「仲がいいだろう(でも実は微妙かも…)」という脳内妄想を補完してくれることが大切なのだ。他のグループでもそういう流れになっている。

この「仲良し男子」という文脈は、女性が作って来たのだろう。「キャプテン翼」の薄い本が生まれて相当の年月が経つ。その間に、現実の方が追い越していったような感じもあるけど、内田篤人などはその代表だろう。

人間どころか馬が主人公の「馬なり1ハロン劇場」の作者も女性だが、もう四半世紀以上続いている。 >> 【今年気になること】仲良し男子と戦う女子。の続きを読む



それほど難しいことを書くつもりではないんだけれど、昨年のラグビーワールドカップで考えたのは「日本人」という意識もだんだん変わるんだろうな、ということだった。ラグビーの場合は、長いこと見てなかった人がいきなり南アフリカ戦が盛り上がったので、覗いたら「エ~そんなに外国人多いの?」となった感じだ。ずっと見ていれば別に驚くことではない。

どの国もそういうルールなのだ。

でも、「なんかモヤモヤする」という人も多かったとは思う。ただし、自分の周囲では少なかった。それは「日本人か外国人か」というような発想で考えている場合ではない、というくらい仕事の環境が変化しているからだと思う。で、そういう環境に身を置いている人にとっては、どこの国の人間かというより「どういうチームで働いて目的を達成するか」が遥かに重要だからだ。

逆に考えると「まわりが日本人だらけ」の環境の人にとって、外国人はいつまでたっても“ガイジン”なのだろうし、そういう人にとってモヤモヤ感はずっと続くかもしれない。

僕はふと思ったんだけど、「カタカナ」というのは、結構その辺りの心理に作用するんじゃないだろうか。日本語では表音文字が2種類あって、カタカナは外来語表記に使われるようになった。そうなると、漢字圏以外の外国人の姓名はカタカナ表記なので「代表一覧」とか見れば、一目でわかってしまう。

ラグビー出場国の多くはアルファベット表記で、もちろん綴りによって民族の系譜などはわかるかもしれないが、日本のようにハッキリとは見えないだろう。

そして、スポーツ界では、日本人と外国出身者の間に生まれた、いわゆる「ハーフ」の選手が活躍する傾向が強まってる。 >> 【今年気になること】「日本人」って何だろう?の続きを読む