特に大きなニュースもない日曜の午後に、こんなニュースの見出しがあってついつい読んでみた。

「メルセデス」と呼んで、のワケ 音声認識もしない「ベンツ」呼称は変わるのか?

ああ、まだこのことでいろいろと悩んでいたのか、と思った。

「まだ」というのは訳があって、これは販売者にとっては昔からの問題だからだ。

そして、昔々、元号が昭和といっていた頃ベンツは「ベンツ」だった。そこには、ちょっとした羨望とそれなりの畏怖、さらには畏怖どころか若干の恐怖要素もあり、それでも「最善か無か」と、クルマの頂点に立っていた。

その頃はヤナセという商社が一手に扱っていたのだが、ちょうど平成という時代になる頃に本社が直接日本市場の攻略に乗り出し、新たなマーケティング施策をおこなう。

そして、「メルセデスの嘘」というキャッチコピーでキャンペーンを行ったりした。

いま、こんなフレーズで広告をやったら「排ガス不正かよ」とツッコまれそうだけど、これは「メルセデス・ベンツに対する先入観を取っ払ってほしい、という思いで書かれた。

つまり、企業が嘘をついているのではなく、世間の情報は真実ですか?という話なんだけど、このタグラインはもちろん「ベンツ」ではなく「メルセデス」だ。

というわけで、「メルセデスと呼んで欲しい」というのは、平成時代の悲願だったと思うのだけど、この記事は読むとまだまだ浸透していないのかもしれない。

もっとも、自動車雑誌などではそうした意向を先取りしたか忖度したのか、「メルセデス」と書き、一部の評論家は「メルツェデス」とかわざわざおっしゃられるという微笑ましい時代もあったが、気がついてみると、世間ではまだまだベンツなんだなあ、と先の記事を読んでしみじみ思った。

でも、メルセデスと呼んでもらえるんだろうか?というとちょっと難しいかもしれないと思う。 >> 「メルセデスと呼んでほしい」が、大変そうだなあと思う理由。の続きを読む



トヨタの豊田章男社長が、米国バブソン大学卒業式でおこなったスピーチが話題になっている。卒業生として、かつ世界を代表する企業のCEOとして何を話すのかと気になったけれど、多くの人が指摘しているようにスピーチとしての骨格から、ちょっとしたジョークにいたるまで、たしかによくできている。

ライターはいると思うけれど、「自分の言葉」で話しているかどうかは、誰が見てもすぐわかるだろう。

で、この動画を学生に見せようと思って見直して気づいたのだけれど、「コミュニケーションの基本」にとても忠実であることにきづいた。

その基本とは何かというと、「SHARE=分かち合い」だ。どんな流暢なプレゼンテーションでも、対象者と「共有する何か」がなければコミュニケーションは成立しない。コミュニケーションを「伝えること」と定義している辞書は多いが、それならtransmissionでもいいだろう >> 豊田章男氏の「ドーナツ」スピーチが、構造的に優れているなと思った理由。の続きを読む



まずは、広告業界の昔話をしてみたい。

かつて、マス広告が全盛でクリエイターがアーティストのように振る舞っていたい頃、広告は「読解され、解釈される」ものだった。というか、一部の業界人がいろいろ後付けの理屈を言って、便乗した学者がコメントして小遣い稼ぎをしていた。

その時の、武器が「記号論」というものだった。別に広告の仕事をしていなくても、1980年に大学生活を送った人で、ちょっとアカデミックなことをかじってみたなら何らかの影響を受けていたと思う。

だから、広告の分析も色々と大変だったりした。

画面にワイングラスが映る。どうやら屋外のようだ。すると、これは「開放感」の象徴であると「読み解く」のだ。日中のようだから、これは昼から飲む「背徳感」かもしれない。しかも晴れていなくて「曇り空」だ。

2つのグラスが映り、どうやら男女のカップルだが、男の指だけに指環が見える。そして、ますます「背徳感」が強調されている。そして、足元には猫の姿。一方で、遠くから芝生の上を犬が走っている。

ネコは思うがままに生きる自由の象徴だが、一方でイヌは正当性の象徴で、ワインの品質は保証される。つまり優れた品質であるが、そのスタイルは顧客に委ねられていて、まさにポストモダンの生活を描いている。

なんてことを大真面目にやっていたんだけど、実は単にロケの日の天気が悪くて、モデルが指環を外し忘れていただけだったりする。しかも、宣伝部の担当が猫好きだったけど、直前に部長が犬を飼っていることが判明して慌ててカットに加えていたりしても、一生懸命「読み解き」をしていたのだ。 >> メディアや広告の仕事してるなら、『新記号論』は気になると思うよ。の続きを読む



そういえば、ちょっと前に「デザイン思考」が話題になった頃、広告代理店の社員の一部には「何を今さら」という感じがあって、そういう名前ではないけれど、フツーにそういう思考をしていたという感覚はたしかにわかる。

ただし広告づくりの範疇を超えて、その思考でビジネスのアップデートできたのか?というと少々「ビミョー」な感じもした。

が、その話はさておいて、そうした思考法の「次の段階」を上手にまとめたなあと思ったのが『直感と論理をつなぐ思考法』だ。この本では、「デザイン思考の平原」にはクリエータなどの“先住民”がいるという表現で、「ビジョン思考」へと先導を試みている。

で、この本の批評をするのが目的ではないんだけど、おもしろいなと思ったことが「妄想」を思考の起点にしていることだった。創造じゃなくて、妄想。

でも、その妄想が許されない企業が本当に多い。これだけ日本の伝統的企業の問題点が指摘されていても、その根本は変わっていない。数多くの改革者と言われる経営者も登場して、もちろん変革は進んでいるけれど、「やっぱダメだったか」ということも、最近になってまた実感してたりする。

そもそもこうして迂闊に「やっぽり」を連発してしまう時点で、どこか自分まで後ろ向きになってしまうことに気づくのだ。

じゃあ、どうすればいいのか?トップの強力なリーダーシップはたしかにプラスに働く。別に妄想という言葉を使わなくても、自由な思考を促す経営者はたくさんいて、ところがそこには思わぬ障壁がある。 >> 健全な妄想を許さない日本企業の「スペシャリスト」について。の続きを読む



テレビの視聴時間が「年代に比例して上がる」のはもう常識で、若い世代が見ないのは「ネットがあり、スマホがあるから」というのも当たり前の話になっている。

で、改めて考えてみようと思って青山学院大学の講義で、学生に聞いてみた。

少人数の講座なので、4~5名で6つのグループに分かれて「なぜ自分たちはテレビを見ないのか」というテーマで議論してもらった。

「いくつか理由を列挙した上で、最大の理由をグループで1つ選ぶ」という指示にした。「もっとも大きな理由」が気になったのだ。

「いや、私は見ます」という人もいないので、議論はスムーズだったんだけど、結果は意外だった。

6グループのうち、5グループが「家にいないから」を最大の理由に挙げたのだ。あと1グループは「コンテンツがつまらないから」だ。僕は「コンテンツ」が最大の理由だと何となく思い込んでいたのである。

サンプルは少ないかもしれないけど、この結果は結構本質を捉えているようにも思う。というのも、「複数理由を挙げて議論している」からだ。そして、どのグループも「家にいない」vs.「コンテンツがつまらない」決勝戦になり、「やっぱそもそも家にいないからね~」となるのだ。

ちなみに、スマートフォンなどでテレビを見るアプリを入れたりとか、そういう意欲はないようだ。そこまで見たい感じでもない。

で、「テレビの危機」というのはよく言われるけど、実は3つくらいの側面があることに気づく。 >> 学生がテレビを見ない最大の理由は「つまらないから」ではなく…。の続きを読む