まあ、だいたい羊のたとえ話が出てくれば、それは聖書に関係しているわけで、日本の話ではない。というわけで、新約聖書の「マタイによる福音書」にはこう書かれている。

「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹をさがしに行かないだろうか。」

聖書にはたとえが多く、その解釈自体が学問になるくらいだけど、この話はスッと「気持ちが伝わってくる」感じがした。

会社員時代に3年ほど新人研修を担当していたことがあったけど、その時はこの言葉を頭の隅に置いておいた。それこそ100人あまりの新人がいたけど、もっとも歩みの遅い人に目をかけておく。これは精神論ではなく、実はとても合理的なのだ。

集団の中でもっとも疲れている人がいれば、その人は実は全体の象徴であり、実際には多くの人が問題を抱えていたりするので、対応しやすいのだ。

そして、この感覚はこれからの日本、つまりコロナ後の「おそるおそる」出口へ向かう時に大切になっていくんだと思ってる。 >> 「一匹の羊」をさがすマーケティングへ。の続きを読む



日本でも世界でも小麦粉が売れているようで、それは家でパンなどを作っている人が増えているからだろう。家で時間があって、食べることが何よりの楽しみになる。

パンだけではなくて、餃子も皮からつくると結構楽しい。そういえばパスタも一頃よくやったなあ。

というわけで、その背景はよくわかるんだけど、これは「触感」に関係するんじゃないかと思った。パンを作るときはこねる。これが結構心を落ち着かせるんじゃないか。外に行けずに刺激が減って、さすがにオンラインコンテンツも見飽きてくると、人は積極的にある種の単調さを求めるようにも思う。そして、ソーシャルディスタンスは、人間の「触感欲」を抑制する。互いに頬をすり合わせる習慣のある人たちとか、本当にムズムズしてるのかもしれない。

ただ、パンや餃子つくりと「触感」との関係は、いま思いついたわけではない。15年ほど前に会社の大先輩の関沢英彦さんに聞いた話がヒントになっている。 >> 小麦粉が満たすのは「触感欲」では?の続きを読む



1ヶ月以上も徒歩圏で生活していて思ったのは、「わざわざ出かける理由」って意外とないんだな、ということだ。

もし「どこ行ってもいいよ」と言われたら、旅には行きたいし、友人には会いたいけど、それ以外はどうだろう。打ち合わせはオンラインでいいし、飲食店にしても過密なところは気が引けるし、マスクしながら観客席に座るのも、どうなのかなあ。つまり、いろいろ自分で選別しながら「新しい日常」が始まるんだろう。

「元には戻らない」とか「New Normal」と言われるけど、戻りたい世界もあれば、そうじゃない世界もある。

で、「もう戻りたくない日常」っていうのもあって、その代表が通勤ラッシュだろうってことは、しばらく経験してなくても想像がつく。

仮に行動制限が解けたとしても、リモート継続の企業はあるだろうし、就業ルールも見直されるだろう。出張よりもオンライン会議となり、多人数の宴会は制限されると思う。交際費課税特例も廃止になり、煙草も吸えず、個室使用は危なっかしい。

そう考えると、「サラリーマンの行動依存ビジネス」は軒並み曲がり角を迎えて、今後も元のようにはならないかもしれない。

・動く=運輸交通

「リモート可」が採用の差別化になれば、どこも競って脱通勤となるだろう。それに、出張を伴う会議は経費見直しの中で特にオンラインになる。管理職が月1回本社に集まるような会議は減るだろうし、収益構造が大変化すると思う。

・食べる=飲食

既に居酒屋業態は数年間低下傾向だったけど、決定的な転機になるだろう。企業の宴会自粛ムードは続きそうだし、密空間がこれだけ忌避されると、席間を詰めて低単価で人を集めていたような店は厳しい。ゆったりさせれば単価を上げざるを得ないけれど、当面所得は上がらないから客は動きにくい。個人客中心の店舗以外は、根本的に変わるのではないかな。

・住む=不動産

都心部を中心に飲食店が退去するだろうし、そもそも「中心部には人が来て働く」ことを前提に土地の価値が決められていたのが大きく変わる。リモートが進むからといって、いきなり郊外に住むわけではないだろうけど、相当なインパクトになるだろう。

・着る=アパレル

ただでさえカジュアル化で単価が低下している時にこの騒動でもちろん厳しい。オンラインミーティングだからトップスだけ売れる、というのも一過的だろうし。

もともと、会社員って「密」な空間で朝から夜まで暮らしてきたわけで、そうした会社員の行動がいろんな産業を支えてきたんだと改めて思う。

ただし、働く人の可処分時間はむしろ増加する可能性もあり、それがデジタル空間に流れるのか、他の可能性があるのか?というあたりが次の論点になっていくのだろう。



特に大きなニュースもない日曜の午後に、こんなニュースの見出しがあってついつい読んでみた。

「メルセデス」と呼んで、のワケ 音声認識もしない「ベンツ」呼称は変わるのか?

ああ、まだこのことでいろいろと悩んでいたのか、と思った。

「まだ」というのは訳があって、これは販売者にとっては昔からの問題だからだ。

そして、昔々、元号が昭和といっていた頃ベンツは「ベンツ」だった。そこには、ちょっとした羨望とそれなりの畏怖、さらには畏怖どころか若干の恐怖要素もあり、それでも「最善か無か」と、クルマの頂点に立っていた。

その頃はヤナセという商社が一手に扱っていたのだが、ちょうど平成という時代になる頃に本社が直接日本市場の攻略に乗り出し、新たなマーケティング施策をおこなう。

そして、「メルセデスの嘘」というキャッチコピーでキャンペーンを行ったりした。

いま、こんなフレーズで広告をやったら「排ガス不正かよ」とツッコまれそうだけど、これは「メルセデス・ベンツに対する先入観を取っ払ってほしい、という思いで書かれた。

つまり、企業が嘘をついているのではなく、世間の情報は真実ですか?という話なんだけど、このタグラインはもちろん「ベンツ」ではなく「メルセデス」だ。

というわけで、「メルセデスと呼んで欲しい」というのは、平成時代の悲願だったと思うのだけど、この記事は読むとまだまだ浸透していないのかもしれない。

もっとも、自動車雑誌などではそうした意向を先取りしたか忖度したのか、「メルセデス」と書き、一部の評論家は「メルツェデス」とかわざわざおっしゃられるという微笑ましい時代もあったが、気がついてみると、世間ではまだまだベンツなんだなあ、と先の記事を読んでしみじみ思った。

でも、メルセデスと呼んでもらえるんだろうか?というとちょっと難しいかもしれないと思う。 >> 「メルセデスと呼んでほしい」が、大変そうだなあと思う理由。の続きを読む



トヨタの豊田章男社長が、米国バブソン大学卒業式でおこなったスピーチが話題になっている。卒業生として、かつ世界を代表する企業のCEOとして何を話すのかと気になったけれど、多くの人が指摘しているようにスピーチとしての骨格から、ちょっとしたジョークにいたるまで、たしかによくできている。

ライターはいると思うけれど、「自分の言葉」で話しているかどうかは、誰が見てもすぐわかるだろう。

で、この動画を学生に見せようと思って見直して気づいたのだけれど、「コミュニケーションの基本」にとても忠実であることにきづいた。

その基本とは何かというと、「SHARE=分かち合い」だ。どんな流暢なプレゼンテーションでも、対象者と「共有する何か」がなければコミュニケーションは成立しない。コミュニケーションを「伝えること」と定義している辞書は多いが、それならtransmissionでもいいだろう >> 豊田章男氏の「ドーナツ」スピーチが、構造的に優れているなと思った理由。の続きを読む