では、どうしてステマ騒ぎはなくならないのか?ということをもう少し突っ込んで考えてみよう。まず、どういう時にステマが起きやすいのかをさっき書いてもらいました。

(この後、学生からの意見をもとに講義)

幾つか出てきた内容を見ていくと、「企業・メディアと消費者との情報格差」という辺りが1つの理由になっているなと思いますよね。

つまり、消費者が「本当のことを知らない」と思っている例。携帯キャリアは「どこがつながりやすいのか?」というのも、その一つだよね。レストランやホテルなどでも、行ったことがなければ、メディアに頼るしかないわけだ。

逆に「自分が詳しい分野」であれば、こうした不安は起きにくい。趣味の世界でも、初心者は情報に頼るけれど、達人はそんなことしない。もちろん、食事や旅行もおなじだよね。

でも、情報がなければ当然不安なわけです。

ちなみに「食べログ」のコンセプトって「失敗しないお店選び」なんだよね。「おいしいものを食べたい」じゃないんだ。それだったら、別のガイドがたくさんあるでしょ。

味だけではなく、価格やサービスなども含めて「用途に応じて最適」な店を探せる、ということを売りにしてるわけです。 >> ステマはなぜ増えたのか?【講義覚え書き】の続きを読む



「ステマ」という言葉がありますよね。知らない人はいる?~みんな知ってるみたいですね。じゃ、「ステ」って何?~ああ、こちらは意外と知らないかもね。「ステルス」というレーダーに捕捉されにくい戦闘機です。

つまり「姿が見えない」発信源からのマーケティング戦術を「ステルス・マーケティング」と言って、それが「ステマ」ということになったわけ。

つまり「記事のようでいて、実際は広告主からおカネをもらって書かれているコンテンツ」が問題になっているわけですよね。これが、消費者を惑わせるものとして批判されていることは、知ってだろうけど、改めて考えてみましょう。

「なぜ、ステマはいけないのか?」ということだよね。

一見当たり前のことだけど、それを考え直すことはコミュニケーションの仕組みを再確認するためにも有効だと思うからです。

まず、記事や番組などのコンテンツは、それを提供するメディアが取材・制作して提供します。

一方で、広告の主体は企業です。自社の製品やサービスについて「買ってほしい」と思って広告するのだから、当然いいことしか書きません。ある会社が「抜群のおいしさ」と言って、他社が「かけがえのない旨味」と言った時に、どちらが優れているかは消費者が判断することになります。 >> 「ステマ」はなぜいけないのか?【講義覚え書き】の続きを読む



フジテレビの亀山社長が、記者会見で今の不調を語る中で東日本大震災に言及したらしい。
「日本の意識がいろんな意味で変わってきたのが(東日本大震災の)“3月11日”じゃないかなと。今までの我々がずっと押し出してきたわくわく感、ドキドキ感や、少し浮世離れしたお祭り感というのが、どこかで絵空事に見えてしまうようになったのではないかと」

そうした中で、日本人の意識の変化をくみ取ることができなかった、という反省らしい。

しかし。

言い訳や分析はいろいろあるけど、これは相当に苦しいと思う。経営者の弁明は仕方ないけど、久々に筋が悪いと思った。

震災の直後はともかく、その後にみんなが求めたものは「わくわく」や「ドキドキ」ではなかったのか。NHKの「あまちゃん」は、あえて被災地を舞台にしながら「浮世離れしたお祭り感」を描いて話題になった。

まったく、ズレていると思う。

それに、あの震災で被災しながらも言い訳をしないで努力している人はたくさいるだろうに、4年も経ってから「やっぱ震災が」と東京の経営者が言っていること自体が、すごく変な感じもする。別にフジテレビに多くを期待するわけではないけれど、なにも経営者が先頭に立って「ダメな感じ」を振り撒くこともなかろうに。 >> フジテレビがダメなのは、もちろん震災のせいではないわけで。の続きを読む



公立図書館を巡っていろんな問題が出てきている。

1つはTSUTAYAに関することで、選書への疑問が出てきて小牧では住民投票まで行われたりした。メディアなどを見ていると、批判が多いようで、住民投票でも白紙撤回のようだ。ただ、ここに来て「TSUTAYAバッシング」じゃないか?という疑問も呈されている。

実際に武雄市では来館者は増加したし、それまでの図書館に「読みたい本がない」という声が寄せられていたのだから、一定の成果はあったはずだ。ただ「読みたい本」に応えればいいのか?という気もする。

一方で、出版社が「新刊本を一定期間貸し出さないように」という要請をおこなうという動きもあるらしい。図書館のせいで新刊が売れない、という理由らしい。

僕は仕事の専門書から小説まで相当の蔵書があり、家では収まりきらずにレンタルルームに3つの棚を置いている。これでも昨年に相当手放して、5つの棚のルームから引っ越したのだ。駐車場を借りられるくらいのコストがそれでもかかる。

自分でも本を書いているし、心情的にもできるだけ買うようにしてた。ただ小説は電子書籍に切り替えても、このまま行くとまたパンクするのは目に見えている。

こうなると、「調べもの」的な場合は図書館を利用する。仕事関連の本は購入して手元におくが、趣味などについてはある程度借りた上で購入を判断する。コンサートで聞く予定の珍しい作曲家についての伝記とか、いきなり読んでも分からない自然科学の本が多い。 >> 「火花」の蔵書数から見える公立図書館の課題。の続きを読む



(2015年11月4日)

カテゴリ:メディアとか
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ベムさんが、嘆いてる。今日のエントリーで、世帯視聴率一辺倒で起きている矛盾について書かれているが、じゃあどうするかというとたしかに難題だ。いつもバッサリ書かれてることが多いようだが、この件についてはやや逡巡も見られて、それほど難しい話だと思う。

「世帯視聴率」というのは、ビデオリサーチが測定し公表する視聴率であって、あのドラマが何%とか、年間1位はどことかいうのも、すべてこれだ。一般的な視聴率ではあるが、問題は「家にいる誰かが見ているとカウントされる」ということだ。

家にいなければカウントされないので、在宅時間の長い人の数字に左右される。また、家にいても「僕は見ない」「私は見る」といった場合は、「私」が見ている番組で決まる。「じゃあ、どうなるかというと年齢の高い人が「世帯」を左右する。
ただし、高齢になるほど広告の効果は限定的になる。一般的に言って、モノはたくさんあるし、あれもこれもとか思わない。あるいは将来不安で余裕がない。別に若者、とは限らなくても、40代くらいまでの人に訴求したいものはたくさんあるんだけど、世帯視聴率を競っても、あまり有効な指標にはならない。

つまり、世帯視聴率が価値の指針になっていないのに、そこから逃れられないのだ。これは他の業界にもあって、「売り上げナンバー1」を競った軽自動車業界は、いわゆる未使用車という在庫を抱えて大変なことになった。「全都道府県出店」を果たしたコンビニはセブンイレブンではないけれど、コツコツと満足度を上げてきた同社が平均日販でアタマ1つ抜けているのはよく知られている。

世帯視聴率は、広告ビジネスにおける最強の通貨だった。一方で、新聞や雑誌の発行部数は通貨としては暴落して、ネットなどの指標が新興通貨になったわけである。

じゃあ、この通貨に代わりはあるのか?近年になって、ビデオリサーチ以外にもデータを提供する動きはある。ただし、商慣習の壁は厚い。あるいはビデオリサーチ社が、世帯視聴率に代わる通貨を提供するかもしれないが、広告主と放送局の利害がからんで、想像しただけで気が遠くなるかもしれない。

ただし、このままでは世帯視聴率という通貨は、ガクッと暴落する可能性がある。それについては関係者だって、気づいてはいる。首都圏直下地震が何%と言われても、そうそう誰もが離れないような状況なのだ。

ただ、可能性の1つとして「特区」のような発想はあるのかもしれない。「地域通貨」じゃないけれど、特定の時間帯や期間、あるいはエリアなどで世帯視聴率以外を指標にして広告効果を図るというやり方だ。いわゆる社会実験と称して、高速道路値下げしたようなものだけど、日本的な漸進的変化となれば、この手の発想はあるのだろうか

ただし、この場合はテレビの視聴率だけでは完結しない。そうなると、既にインテージとニールセンが行っているような活動が注目されるだろう。
結局、個別の%や部数などの「量的数字」では意味がない。効果や満足度などを統合した「新しい通貨」を提供しないと、結局はコストと効率の競争になって、それは経済後退期にはメディアを直撃する。残された時間は、限られているのではないだろうか。